絲山秋子『沖で待つ』

絲山秋子沖で待つ文藝春秋、2006年2月
本書のは、「勤労感謝の日」と芥川賞受賞作の「沖で待つ」の2作品が収められている。どちらも面白い作品だった。絲山秋子の小説を読むのは初めてである。
勤労感謝の日」は、語り手のつっこみが面白い。つっこみ文学とでも言いたくなるぐらい、いろいろとつっこみを入れていく。「何が勤労感謝だ、無職者にとっては単なる名無しの一日だ。それともこの私に、世間様に感謝しろ、とでも言うのか」(p.7)という冒頭からして、「勤労感謝の日」に悪態をつく語り手が面白い。語り手の「私」は、知り合いの人に勧められて見合いをすることになるが、その男に対しても心中でつっこみを入れ、そのあげく見合いの席を飛び出してしまう。
男に対して見方が厳しいのは角田光代と同じなのかなと思ったが、受賞作の「沖で待つ」はそれを逆手にとったような作品。ここでは、同期に入社した男と女の、友情とも愛情とも判断つきにくい不思議な関係を描いている。同期である、このことが主人公で語り手の「私(及川)」と「太っちゃん」の関係を特別なものとしている。二人は、ある約束を交わす。それは、どちらかが死んだときには、自分の「秘密」を守るために、パソコンのハードディスクを壊してしまうということだ。「私」は、約束通りに「太っちゃん」が亡くなったとき、「太っちゃん」のハードディスクを分解し壊してしまう。一体、ここにあった「太っちゃん」の「秘密」とは何だったのか。――
沖で待つ」には興味深い点が一つある。「私」には、向かいのマンションの男性を覗く習慣があるというのだ。女性が、男性を覗き見する。この主題は、青山七恵の『窓の灯』の主人公の女性と同じなのだ。小説の女性が、見られる側から見る側へ移動している。女性主体のポジションの変化が、この2作品からうかがわれる。ジェンダー論は、この変化の背景と意味を考えなければならない。

沖で待つ

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