仲正昌樹『お金に「正しさ」はあるのか』

仲正昌樹『お金に「正しさ」はあるのか』ちくま新書、2004年10月
「売れることを目指した文学や芸術なんてダメだ!」とか「しょせんハリウッド映画なんて商業主義だ!」なんてことを昔は(今でもか?)よく考えていた。「お金」に汚された「芸術」など認めない、なんていうような、いっぱしの芸術至上主義を志していた。
しかし、このサイトを見れば分かるように、今の私は完全にお金の影響受けない純粋な「芸術至上主義」の道から外れてしまった。どんなに崇高な思想であろうと、すばらしい文学や芸術作品であろうと、「貨幣」の存在を無視して成り立つことはできないのだ。
文学とか芸術について研究していると、つい「貨幣」の存在を忘れてしまう。たとえば、読者や受け手に受けることばかりを考えている文学や映画を、「読者におもねっているような作品は二流、三流の作品だ」と私は時々えらそーに批判してしまうことがある。私の中では、芸術の自立性こそが重要であり、芸術以外のことから影響を受けるような作家や作品を実は軽蔑していたのだ。そんなわけで、10代のころは、芸術至上主義の作家だと言われる芥川龍之介に憧れたりしていた。芥川のような苦悩こそが、作家の姿であると。
以前『百年の誤読』を読んだとき、私は以下の箇所を引用してとても面白い発言だと感想を書いた(id:merubook:20041106)。

岡崎 どう読んでも、好きじゃないんだよ、五木さん、この本。なのに翻訳と解説。
豊崎 お金だね(笑)。(p.272)

「お金だね」というのは身も蓋もない発言だけど、かなり重要な言葉だったのだ。
芥川の芸術至上主義も、原稿料に支えられていたとしたらどうだろう。作家が原稿料である程度生活が可能になったからこそ、芸術と生活との間で引き裂かれる芸術家の「苦悩」が生れてきたのだろう。つまり「お金だね」ということなのだ。近年、「文学」がいかにして誕生したか、という研究がなされ、作家の原稿料の問題も論じられている。いわゆる「円本」の研究もお金と文学の問題だ。文学や芸術と「お金」は切り離して考えることはできないのだ。
このへんの問題を、本書第二章の「貨幣化された世界と「私」」が論じていてとても興味深い。仲正氏は、しばしば「虚学」などと言われる文学や哲学について「どういう実利を、あるいは損失を生み出すのか分からず、一義的に評価しにくいが、そのおかげでかえって魅力があるようにも思える学問」と表現するべきだろうと記している(p.95)。
要するに、文学や哲学などの学問はすぐに「貨幣」的に利害を計算することができない、したがってどんな利害があるのか人々が想像力を働かす余地があるということで、「純粋な精神的な営み」として、これらの学問は社会に認知されている。そして、人々は簡単に「貨幣」で価値を推し量れない、どこかに「未知のもの」が残っていて欲しいという欲求もあって、これらの「知の営み」に一定の「投資」がなされているという。
芸術の場合はどうかというと、学問よりも市場の評価にさらされる機会が多いということがある。芸術作品といえど「貨幣」による交換を前提に「価格」が付けられているので、芸術と貨幣経済との緊張関係が表面化しやすいという。したがって、「対象相互の細かい差異を捨象して画一的な基準で商品化しようとする貨幣経済の圧力を巧みに回避しながら、お決まりの「型」に収まらない創作をしなければならない」(p.100)ということだ。
お金と文学・芸術の話というとマルクス主義的文芸批評とか思いだしてしまうのだけど、仲正氏は左翼批判で有名なので、そのような批評とは異なる。この点が本書を新鮮なものとしている。
私は、本書によって自分が「お金に影響を受けない純粋な」文学・芸術を欲望していたということを知り、それがとても面白かった。やっぱり「お金」を無視してはダメだなと。ついつい「お金」から目を逸らしたくなるのだ。そのくせ「お金」は欲しいのだが。「お金」への欲求を隠蔽して、「お金」に影響されない「世界」=ユートピアを夢見てしまう。ときどき、私が激しく「資本主義」を憎むのは、このような理由があったのだ。ユートピアばかりを夢見ていては不十分だった。「お金」に正面から取り組まないといけない。これを新しいテーマにしてみたい。

お金に「正しさ」はあるのか (ちくま新書)

お金に「正しさ」はあるのか (ちくま新書)