ソフトさに潜む偏見

asahi.comのBOOKのページで特集「「愛と観察」希望育む 鷲田・フィールド対談」という記事がでていた。読書の「秋」にちなんだ特集だ。哲学者の鷲田清一と、日本文学・日本文化論のノーマ・フィールドが対談をしているので、少し興味を持った。
対談を読んでみると、鷲田は「僕は今回、批判的思考というか思考のタメを作る力、ヒントを与えてくれる本を選びました」と言っている。なるほど、良い本を選ぶなあと感心する。また、「哲学科にいても一冊も哲学の本を読んだことがない学生もいる。でも一冊読み切る、何か震えてしまうという経験をしていないだけで、一回すると案外読むと思う。僕はいつも学生に解説書を読まんと元の本を読みなさいと言う。ワンフレーズに触れただけでビビッと来る場合がある」とも発言しており、私もその通りだなと共感する。そうそう、本なんて読み出すとけっこう読めるものなのだ。
さらに、鷲田が「それと、自分を支えてきた思考の枠組みが壊され、混乱に陥るような本を選んだ」と述べているので、なかなか良いことを言うなあと思った。
しかし、次の発言を見て疑問を感じてしまう。

鷲田 うちの院生で傑作なのは、ニュータウンへ行って、公園デビューとかしているようなヤンママを集めて月1回、哲学カフェをやっているんです。

一見すると何も問題がないように思える。「ヤンママ」と哲学カフェをする、すばらしい試みではないかと。しかし、立ち止まって冷静に考えてみると、なぜ「ヤンママ」と「哲学カフェ」をやることが「傑作」だと感じるのだろう?。なぜ、これが「傑作」なのか。
そう考えると、この発言は実は哲学者としては問題があるのではないかと思われる。「ヤンママ」と「哲学カフェ」をやることが「傑作」だと思えるためには、「ヤンママ」は「哲学」とは縁遠いものである、という認識が必要なのではないだろうか。「ヤンママ」と「哲学」は本来結びつかないものだ、それを結びつけた院生の活動は「傑作」だ。――鷲田はこう考えているのではないだろうか。そうだとしたら、これは「ヤンママ」と呼ばれる若い女性たちを蔑視していることになるのではないか。つまり、鷲田は若い女性というものは「哲学」に興味がないものだという偏見を持っているのだ。
どうも鷲田という哲学者は女性に対して偏見をもっているようで、たしかそのことを上野千鶴子も鷲田のジェンダー意識を批判していたと思う*1。鷲田の語り口はソフトで理解しやすいので、つい見過ごされてしまうのだが、この女性に対する偏見は彼の大きな欠点だと思われる。哲学者としては致命的な欠点ではないか。
そもそも鷲田の本が人気がある(あった?)のは、多くの人が漠然と感じていること、思っていることをうまく言葉にしてきたからではないだろうか。そのような彼の感受性の鋭さは評価すべき点ではあるのだが、それだけでは世間の枠組みを超えることはできない。むしろ、既存の枠組みを強固にしてしまう危険性をもはらんでいる。ジェンダー意識でいえば、結局のところ、女性=劣位者あるいは何かが欠けている者、とする枠組みから鷲田は抜けだせない。
この対談のなかで、鷲田は「自分を支えてきた思考の枠組みが壊され、混乱に陥るような本を選んだ」と述べているが、実は自分自身はそれができていないし、おそらく混乱に陥った体験もしてきていないのではないか。鷲田の哲学というものは、しょせん既存の枠組みのなかでの思考にすぎず、既存の枠組みを跡付けてきただけだ。だから、鷲田の本の読者は安心できる。鷲田の本を読むと、自分が何となく感じていることを、鷲田が自分に代わって表現していると思えるからだ。
ソフトな語り口ほど注意しなければならない。

*1:立ち読みしただけなので自信がない