猪木武徳『文芸にあらわれた日本の近代』

猪木武徳『文芸にあらわれた日本の近代 社会科学と文学のあいだ』有斐閣、2004年10月
副題の「社会科学と文学のあいだ」という点に引っかかって読み始めてみた。文学プロパーの私からすると、これは「邪道だ!」という思いがしてならない。
本書は、一人の社会科学の研究者が文学作品をどのように読んだのか、という本だ。文学作品の時代背景やモデルを論じる。著者は、本書で用いた方法をつぎのように説明する。

 本書で私が用いたのは、文学作品そのものを用いて、時代の「良質な観察者」としての文人が描く人々の生活の内面的な部分を、ストーリーの流れの中から読み取るという手法である。(p.10)

ここの「良質な観察者」というのは、たとえば本文中では山田風太郎の『戦中派不戦日記』について論じている時に出てきている。曰く、「最良の文学者」は「最良の「傍観者」」であったと。
本書で対象となる文学は何か。著者は、まず「歴史と文学とを渾然一体化させてしまった」といういわゆる「歴史小説」を外す。もう一つは、いわゆる「経済小説」「企業小説」といった類の作品も外している。というのも、経済小説などは、「経済社会」や「社会の内実」を強く意識して取り上げてしまうからだという。著者は、「経済社会」や「社会の内実」を描くことが目的ではないのに、知らず知らずのうちに「人々の内面的生活と社会の全体的雰囲気」を語っている作品に関心が向く。というわけで、本書ではいわゆる「純文学」と呼ばれる小説が取り上げられる。論じられた作品は以下の通り。
武田泰淳『鶴のドン・キホーテ』、太宰治『斜陽』、三島由紀夫『絹と明察』、永井荷風『あめりか物語』、谷崎潤一郎痴人の愛』、横光利一『上海』、小林多喜二蟹工船』、大岡昇平『野火』、山田風太郎『戦中派不戦日記』、夏目漱石『文芸の哲学的基礎』
著者の言うとおり、本書は文学作品そのものを読み込むのではなく、作品中に登場する出来事や人物を取り上げ、それらを基に日本の近代社会を論じている。文学作品より、その背景となる時代や社会を論じることにウェイトが置かれていた。この論じ方が悪いとは言わないが、文学作品に関心を持つ私にとって、文学作品の読解には物足りなさを感じてしまう。しかし、作品のモデル、あるいは時代背景や歴史などの知識を得るにはちょうど良い本だと思う。