ウォルター・サレス『モーターサイクル・ダイアリーズ』

◆『モーターサイクル・ダイアリーズ』監督:ウォルター・サレス/2003年/イギリス・アメリカ/127分
つい最近、ゲバラの『ゲバラ日記』と『ゲリラ戦争』の二つの本を読んだけれど、それはこの映画を見るための準備だった。あらかじめ、ゲバラがどんな人物だったのか、映画を見る前に少し知っておきたかった。
この映画のゲバラは、まだ医学生のころで、革命とか縁のない時代だ。旅行好きの、無鉄砲な冒険野郎といえる。そんな青年二人が、南米大陸を放浪し、さまざまな土地で、さまざまな境遇の人たちと交流する。それによって、現実をあるいは世界を知り、それが後の革命へと繋がっていくのだろうなあという予感をさせて映画は終る。最後に登場したのは、ゲバラと一緒の旅をしたアルベルト・グラナード本人なのか。
この映画は、要するに主人公二人の成長物語であって、旅をすることは同時に自分自身の内面を探究することになっている。そうすると、国境という人為的な境界を越えることはあまり重要ではない。むしろ、自分の内側にある境界を越えていくこと、それが本映画の大きなドラマとなるであろう。
で、その境界を越えていく通過儀礼がここでは二箇所あったと思う。一つは、土地を奪われ、共産主義者として警察に追われ放浪の旅に入り、仕事をもとめて銅山へと赴く夫婦との出会い。夫婦とゲバラたちは一晩過ごすことになるのだが、そのとき暗闇に浮かぶ夫婦二人の苦悩の表情が、ゲバラでなくてもひどく心に残る。生きる場所を奪われ、世界の果てに追いやられ、しかも人間としての尊厳も奪われる。しかし、それでもなお生きている人との出会い。この場面は秀逸。
もう一つの境界越えは、もちろん最後の川越えだ。こちらは、やや平凡すぎる。物語としては陳腐な表現かもしれない。川を越える、つまり自分たちとハンセン病患者たちの境界を越えて、あるいは民族を越えて、一つに繋がろうという意味を象徴させているのだけど、直前にゲバラがそうしたことを口にして言っているだけに、くどい表現になってしまうのだ。この川越え=境界越えが、要するにゲバラの革命の思想なのだ、ということを言いたいのであろう。
ともかく、私はこの映画を見たことで、ますますゲバラファンになったことは言うまでもない。ゲバラはロマンチックな想像を掻き立てるから、人気があるのだろう。