野村芳太郎『砂の器』

◆『砂の器』監督:野村芳太郎/1974年/松竹/143分
リバイバル上映とのことで、名作を映画館で見られるのはうれしい。『砂の器』は、まだ見たことがなかったけど、松本清張の小説とともに有名なので、だいたいの内容は知っていた。でも、きちんと見てみると、ほんとに良く出来ている作品だなと感心した。脚本は、橋本忍山田洋次山田洋次が、この作品の脚本を書いていたとは。
この映画の見所はやはり、音楽家和賀英良の過去が暴かれていく回想シーンだと思う。ここは、和賀の生い立ちをひたすら今西が語っていくのだけど、そこに和賀の演奏がはめ込まれていく。和賀の「宿命」の演奏と共に、和賀の不幸な過去が明らかになっていくこのシーンはたしかに感動的だ。
丹波哲郎演じる今西は、和賀を逮捕しにコンサート会場に行ったとき、「和賀は音楽を通してしか父と会えない」というようなことを言う。このことは、きちんと映像によって表現されている。映画では、「手」の映像を通じて、親子が深い絆で結ばれていることをしっかりと観客に示していたのだ。
英良と父の千代吉が、病のために放浪していた。その旅の途中で、島根の亀嵩で、正義感溢れる真面目な警官と出会う。その警官のおかげで、父は療養所に行くことになるが、そこで父と息子は、別れなければならなくなる。親子の永遠の別れとなる。このような放浪の旅の映像のなかで、目に付くのは病のために不自由になった千代吉の「手」なのだ。
「手」がピアニストでもある和賀英良にとっても重要なことは間違いない。したがって、演奏中、彼の「手」が何度かクローズアップされるはずだ。千代吉の不自由な「手」の映像が、演奏する英良の「手」と接続される。そして、コンサートが終了したとき、観客は盛大な拍手を英良に送るだろう。その時、観客や演奏者たちの「手」がクローズアップされていることにも注意しよう。
つまり、本作のクライマックスにあたる回想シーンにおいて、その中心をなす映像は紛れもなく「手」であることが理解できるだろう。父の「手」から息子の「手」へ、そして大勢の観客の「手」へと、映像が繋がっていく。まさしく音楽を通じて「手」と「手」が繋がっていき、そうして「手」が繋がったことをまるで祝福するかのような拍手が生れていく。今西の言葉は、こうして見事に映像として表現されている。この表現は、クライマックスにふさわしい。父と子の二人ともお互いの存在を否認しているわけだが、映像はこの演奏のなかでく深く結びついていることを強く印象づけるだろう。とても素晴らしい映像だと思う。