島本理生『ナラタージュ』

島本理生ナラタージュ角川書店、2005年2月
この小説は、島本理生の傑作と言いたい。それぐらい良い小説。かなり洗練されてきた。センチメンタルな物語にすぎないと分かっていても、小説世界に没入にしてしまう。それだけ私には魅力的な小説だったということなのだろう。
島本理生は、以前から「雨」を多用する作家なのだけど、それはこの小説においても変わらない。「雨」といえば、「水」とも連なるわけで、冒頭場面が川べりを歩く場面というのも、この作家が「水」に強く引かれていることが分かる。
「雨」あるいは「水」の作家であるとともに、島本理生の作品で顕著なのは五官だ。五官を通じて、登場人物の心理を描く。作家がかなり鋭い感覚の持ち主であることはまちがない。感覚の微妙な変化に、それは体温であったり、匂いであったりするのだが、これらに特に主人公の「泉」は敏感なのだ。特に体温、掌を通じて感じる相手の体温の微妙な変化を作者は拘っている。冷たい、暖かい、こうした体温の変化が繊細な心理となって表現されているのは見逃せない。
感覚といえば、この小説の主題は「痛み」だと思う。「痛み」によって「泉」はこの世界にいることを確認しているようだ。逆に「痛み」が感じられなくなったとき、「痛み」に鈍感になったとき、それは登場人物の危機となって現れる。自分の「痛み」、他者の「痛み」を気遣うこと。この小説の主題はここにあるのだ。
したがって、冷静に考えると、この小説の世界とりわけ「泉」の世界は、端から見るとかなり神経を使う世界ではないだろうか。言葉ではなく、感覚であるいは直観で他者が何を思っているのかを悟らなければならない。「泉」の世界はそういう世界なのだ。「泉」が「葉山先生」を好きになるのも、「葉山先生」がなぜか「泉」の状態を理解してしまう(ように「泉」に思えた)ことであろう。それが「恋愛」という関係の本質(と考えられていること)なのかもしれないが。
他者への気遣いが重要なので、この小説の登場人物は「ごめん」と謝ることが多い。それは、相手の状態を感覚で悟れないぐらい鈍感であったこを意識させる。他者への気遣いに鈍感な者は、暴力という手段で他者を支配しようとするだろう。それが最悪な形で現れたのが「柚子」であることは言うまでもない。
「痛み」に対して敏感であること。「泉」が求めている/求めてしまうのはそれだ。

ナラタージュ

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