学歴難民!

Newsweek(日本版)』(2006年6月7日)に「学歴難民クライシス」という特集があると知ったので、さっそく本屋に行って買ってきた。
記事によれば、一流大学を卒業しても、あるいは大学院を修了しても仕事にありつけないのは、日本に限らず今や他の先進国によく見られることだという。

 高学歴者の就職難民化は、先進国共通の問題だ。韓国では大卒以上の失業者が33万人超に達し、ドイツでは年間の新卒者数に匹敵する23万人の大卒者が失業している。ブレア政権が大学進学率の向上を推進したイギリスでは、単純労働の仕事しか見つけられない高学歴者が社会問題化している。進学率の上昇で高学歴人口が増え、高学歴者同士の生存競争が激しくなっているのだ。(p.26)

この記事のなかに出てくる事例は、私自身の状況とまったく同じなので、他人事ではない。この記事の内容は、結局学生側の意識に問題があるような流れとなっていて、当事者として読んでいてかなり不満に思う。
上位校出身者や高学歴者ほど、望みが高く、大手企業にしか行きたがらない。要するに一流大卒ゆえのプライド、この意識が問題だというわけだ。また、そんな学生を見越してか、企業側も有名大学出身者には身構えるともある。そして、誇らしげな学歴が書かれてあっても見ないという大手メーカーの中堅幹部の「それよりまず、営業はできますか、対人コミュニケーションが問題ありませんかという問題だ」という言葉を紹介している。
大学院進学者にはさらに見方がきつくなる。記事では、「企業が知りたいのは、研究を通して見えてくる取り組み姿勢や思考能力」(p.28)だとある。それをはき違えて、自分の研究内容を話されても「いちいち理解できないし、鼻につくだけ」という採用担当者の言葉を引いている。こういう言葉はちょっとむかつく。もし企業の採用担当者に「思考能力」や「視野の広さ」があれば、学生のアピールする研究内容も理解できるはずなのではないか。理解できないということは、その採用担当者に理解する能力がない、自分の仕事以外に興味や関心がないという「視野の狭さ」が原因なのではないかと皮肉を言いたくなる。自分の能力を棚に上げて、学生の責任するなと。
そんな冗談はともかくとして、大学院進学者はコミュニケーション能力に欠け、専門分野以外の視野が狭いという先入観が企業側にある。この先入観を打ち破り、さらにプラスアルファがなければ、採用は難しいという。それにしても「視野の広さ」が必要と言われるが、これはいったい何だろう? いったいどれほどの視野があれば「広い」ということになるのか。こういう抽象的であいまいな評価は、「コミュニケーション能力」と同様にやめて欲しい。――
当事者としては、これらの内容は本当につらい。結局、学歴や専門知識は就職には必要ないと言われているようだ。どうしてこんなにも高学歴者に対し風当たりが強くなったのか。「甘い」と思われるかもしれないが、修士号や博士号を得るには、それなりに時間と費用を掛けているわけで、それにも関わらず、そんなものは必要ないから全部捨てろと言われてもすぐに納得できるわけがない。学歴を得るために掛けたコストは、学生(とその両親)だって取り戻したいのだ。だから、自分に見合った仕事を望むのはある意味自然の流れではないだろうか。
記事では、大学の教育内容と企業のニーズとのミスマッチ解消として、経団連日本IBMや日立など14社が提携して開設するソフト技術者専門大学院が紹介され、企業自ら即戦力を養成するとある。また、韓国のサムスン社の取り組みも紹介している。しかし、これは結局企業側が、優秀な学生を早期に囲い込みたいだけなんだろうなと思う。本来なら入社してから行う教育を、大学や大学院にやらせるわけだ。社員教育にかけるコストを抑える方法として、大学院が利用されるようになるのだろうか。
そんなわけで、企業側の言い分にはとうてい納得できないのだが(合理性があると思うけれど)、とはいえ「短期的には、学生側が考えを改める以外の特効薬はない」(p.31)というのもまた真実かもしれない。つまり、高学歴というプライドを捨てるしかない。しかし、「プライドを捨てる」と言うのは簡単だが、実行するのは難しい。この『Newsweek』には、修士号を持つ3児の母で、ピザの配達をしているデラウェア州の女性の記事(p.77)もあったが、このように自分の専門にこだわらない意識の変革がたしかに必要なのかもしれない。世の中には、高度な専門知識を必要とする職業が残念ながら少ないのだから。