マルセル・カルネ『天井桟敷の人々』

◆『天井桟敷の人々』監督:マルセル・カルネ/1945年/フランス/195分
もうあまりにも有名な映画だし、世界の映画ベストテンをすれば必ず上位にランクされる映画だが、やはりこう言いたくなる。この映画は間違いなく傑作だし、名作なのだ。
以前に、ビデオでは見ていたのだけど、今回はじめてスクリーンで見ることができた。ビデオで見たときは、長い映画だなと感じたが、きょうは全然長いとは思わなかった。あっという間の3時間だった。途中に休憩が入るのだけど、休憩なんていらない。一部と二部、連続して見せてくれと思う。
典型的な、ある意味メロドラマのお手本のような物語。ほんとに愛し合っている二人、つまりバチストとガランスがついに結ばれずに、犯罪大通りのカーニバルの群衆のなかで決定的な別れを演じるラストシーンは、分かっているけど涙してしまう。ベタに感情移入してしまう。要するに、ここまで魅せるテクニックが巧いのだ。
あらためてラストのシークエンスを追ってみよう。まず、数年ぶりに再会したバチストとガランスが、かつての思い出の下宿屋で一夜を過ごした翌日の朝。ここに、カーニバルに一緒に行こうと子どもを連れたバチストの妻ナタリーがやってきて、バチストとガランスの二人を見たナタリーはバチストに詰め寄る。一体、誰を思い続けていたのかと。
その間に、ガランスは部屋を出て行ってしまう。ここから有名な群衆場面に入る。下宿屋を出るガランス。追いかけるバチスト。下宿屋の入り口にはパパとママを待つバチストの息子がいる。しかし、ガランスを追いかけるバチストにはその姿は目に入らないし、息子も父のことを認識しない。入り口で一人佇んでいる息子のショットが挿入される。
群衆の中をどんどん進んでいくガランス。群衆をかき分けて追いかけるバチスト。途中で、バチストは嫌っている古着屋のおやじにつかまり、あきらめろと説得される。それを無理矢理ふりほどいて追いかけるバチスト。馬車の乗り込むガランス。そして、出発した馬車はバチストからどんどん遠ざかっていく。必死に追いかけるバチスト。馬車の中のガランスが一瞬挿入され、カーニバルでごった返す犯罪大通りが映し出され、幕が下ろされる。
この追いかけっこが、まさしくメロドラマの王道だなと思う。メロドラマの教科書のような最後のシークエンスなのだ。これは、何度も見て勉強したほうがいい。それぐらい巧いと思った。息子と父が、まったく互いに気がづかないという何気ないショットを挿入するあたりの演出なんて心憎い。こういう細かい点にまで、気を配っているのは注意したほうがいい。
犯罪大通りで始まった物語(恋愛)は、犯罪大通りで終末を迎える。思えば、この物語は回帰の物語なのだ。かつて運命的な出会いをした場所へ、二人は戻ってくる。ガランスは、かつて一緒にすごした日々を思い出す。下宿屋のちっぽけな部屋に入って、ガランスは強調するにように、昔と同じだということを繰り返す。しかし、そう口にしなければならないほど、二人は変わってしまったのだ。同じ場所へ回帰しようとしても、実際は回帰できないことを、この二人はよく知っている。古びた言い方になるが、時間は元に戻せないのだ。これが、メロドラマの文法だと思うし、ロマン主義と呼ばれるものなのだ。
この二人以外にも、この映画の登場人物は魅力的。とりわけ興味をもったのは、悪党ラスネールだ。バルザックの小説にも登場しそうな悪党なのだが、実は人生に深い絶望を抱いている(と思う)。ラスネールは、生というものがいかに無意味であるか、そのことを痛いほど分かっているはずだと思うのだ。それなのに、それゆえにか、ガランスを求めてしまうし、自尊心からの殺人を犯す。しかし、あくまでラスネールはシニカルな人物だと思う。ちょっと知ったかぶりをして言うならば、ロマン主義シニシズムの人物なのではないか。
それにしても、ラスネールに限らず、実はこの映画の登場人物たちは、みんな生の無意味さを知っているような気がする。どこがと指摘できないが、映画全体がどこか深いペシミズムに覆われているような印象を受ける。状況論的に見るならば、戦時中に製作されていることが影響を及ぼしているのだろうか。滑稽を演じていても、常に暗い影が付きまとっている。
二度と戻らない時間、絶対に成就しない愛、それ故に激しく求めてしまう。こうした物語に、やっぱり涙してしまうのだなと。分かっていても、泣ける映画なのだ。

天井桟敷の人々 [DVD]

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