徐京植『ディアスポラ紀行』

徐京植ディアスポラ紀行−追放された者たちのまなざし−』岩波新書、2005年7月
著者は、「ディアスポラ」を「近代の奴隷貿易、植民地支配、地域紛争や世界戦争、市場経済グローバリズムなど、何らかの外的な理由によって、多くの場合暴力的に、自らが本来属していた共同体から離散することを余儀なくされた人々、およびその末裔を指す言葉」(p.2)として用いるとしている。本書は、このような人々のアートや文学を紹介しながら、「ディアスポラ」として生きることとは、どういうことなのかを明らかにしていく。「この試みはディアスポラからの眼差しで「近代」を見つめ直すこと、そして「近代以後」の人間の可能性を探ることであるともいえよう。」(p.3)
この手の本、つまりポストコロニアル関連の書籍を読むと、いつも私は「何かおかしい」と感じてしまう。この違和感がどうして生じるのか、どうすれば解消するのかということを考えているが、今はまだ答えが見いだせない。本書の試みは悪くないし、「国民国家」批判や植民地主義批判も納得できるのだけど、全体を読んでみて、なんとなく違和感というか、こういう批判で良いのだろうかと悩む。一体何に私は引っかかるのか。この違和感をなんとか言語化して、昨今のポストコロニアル研究を乗り越えることが出来たらいいなと思う。
本書に戻る。いくつか引っかかった記述があったのだが、そのなかでも一番気になる文章を引用しておきたい。

 母語の共同体から引き剥がされ、異なる言語共同体へと流浪して行くディアスポラたち。彼らは、新たに流れ着いた共同体で常にマイノリティの地位におかれ、ほとんどの場合、知識や教養を身につける機会からも遠ざけられている。そうした困難を乗り越えて言葉を発することができたとしても、それを解釈し消費する権力は常にマジョリティが握っている。その訴えがマジョリティにとって心地よいものであれば相手にされるが、そうでない場合には冷然と黙殺されるのだ。(p.205)

たしかに、そのとおりだと思う。本書では、マイノリティの地位に追いやられ苦悩するディアスポラたちの姿が活写されていて、これはこれで「近代」批判、「国民国家」批判として価値を持っている。だが、気になるのは、この引用した文章は、本書自身に跳ね返ってくるのではないかということだ。つまり、本書が「岩波」から出版できたということは、著者の考え、本書の内容がマジョリティにとって心地良いものであったからなのではないか、という疑問が生じる。もし、マジョリティにとって心地の悪い内容であったならば、本書は出版されたのだろうか。あるいは、そもそも著者は書くことが出来たのだろうか。これは、著者や本書の問題というより、マジョリティ側の権力性の問題なのかもしれない。というか、そもそもマジョリティって何だ?
どうもこの手の問題を論じるのは難しい。