宮台真司・仲正昌樹『日常・共同体・アイロニー』

宮台真司仲正昌樹『日常・共同体・アイロニー双風舎、2004年12月
二人の現在の考え方がよく分かる、とても面白い本だった。私は、どちらかと言うと、仲正氏のほうが良い。お祭り体質の宮台氏よりも、人付き合いが苦手らしい仲正氏に共感を覚える。そのような実存とおそらく関わりながら話す「日常性」や「共同体」への強烈な批判が、仲正氏の魅力であろう。宮台氏の下品な(?)言葉による罵倒芸も面白いが、仲正氏のときおり飛び出るバカ左翼への皮肉が楽しみなのだ。
そんな感じで二人の対話を読んだ。近代というのは徹底して突き詰めていくと、その論理が自分自身に跳ね返ってきてしまう。そして、自らの論理でもって自身に矛盾が生じて崩壊してしまだろう。まさしくアイロニカルの状態。そこで、こうした状況に耐えられず何をしても無駄だとか、何でもありだとかニヒリズムに陥らずに、アイロニーであることをつねに自覚していることを両者とも語っている。
今、この瞬間に良しと判断したことが、常にどこでも良いとは限らない。時間や場所が変われば、良しと思ったことが悪であったり、自分にとっては良いと思っても、他人にとっては悪であったりする。だからといって、何も決断しないということでは、何も解決しない。どこかの時点で、それこそ「あえて」何事かの判断を下さなければならない。

 私たちは絶えず、区別をもちいるしかありません。しかし同時に、ありとあらゆる区別を信じないという態度が要求されます。それが、先に述べた「人のなす区別を踏まえつつ、永久に信じずに実践せよ」という命題につながります。最後に問題になるのは、そうした実践や、実践を支える認識に、人は耐えられるのか、ということです。(p.274)

宮台氏の発言だが、本書のツボはここにあるのだなと思う。二人の思想背景や、依拠するところは異なるものの、「人のなす区別を踏まえつつ、永久に信じずに実践せよ」という点で共通している。アイロニーというのは、要するに絶えず自己ツッコミを続けていくことなのだろうか。最近「立ち位置」という言葉が、至るところで目に付く。「○○と考えている自分」の「立ち位置」をみんな気にしているのだろう。永久不変に信じられるものはないのだから、一度信じたものを守り続けるのではなく、その都度チェックして修正し続けること。変化を怖れないということ。
私には、こうした方法はけっこうキツイなあと思ってしまう。宮台氏は「未規定なものを前にすると足がすくむというのは、私にいわせれば「幼稚園児の思考」です」(p.275)と言っている。ああ、私は「幼稚園児の思考」なのか…。

日常・共同体・アイロニー 自己決定の本質と限界

日常・共同体・アイロニー 自己決定の本質と限界