「自然」とは

ネット上の『珈琲時光』のレビューやブログでの感想を読んでいて一つ気になったことがあった。それは一青窈の演技が「自然」だった、と述べる人がけっこういるということだ。
「自然」な演技ってどういうものだろう?普段の生活のまま、ということだろうか。とするなら、「自然」な演技だという指摘する人は、一青窈と直接的な繋がりがあり、一青窈の普段の日常生活をよく知っているということなのだろうか。もちろんそういうわけではない。いかにも若い女性らしいふるまいだ、ということを意味するのだろうか。
それでは、どうして一青窈の演技だけ「自然」らしく、余貴美子の演技は「自然」らしくないのだろう?それは一青窈が初めて映画で主演したのに対し、余貴美子はベテランの俳優だから、という理由からか?とすると、一青窈だけ「自然」で他の出演者は「自然」ではないと言えるのか。そう言える根拠は何か。
ほんとにこの映画のなかで一青窈の演技が「自然」に見えたのか?考えれば考えるほど良く分からない。「自然」な演技っていったい何なのだ?
それにしても、この映画に関しては紋切り型の評価が多い。やれ「淡々とした映画」だ、「外国人の見た東京」だとか、「自然な演技だった」とか。ましてや、父の沈黙は父性の希薄さを、それはまた「日本人(!?)家族」によく見られるタイプだなどという評価*1は、まったくスクリーンを見ていないということを自供しているようなものだ*2
たしかに父は陽子の妊娠の話になると何もしゃべらなかった。だが、画面を見てみよう。この時、一度だって、父がフレームの外へ出たことがあっただろうか。父は、沈黙したままではあるが、じっと画面内に映っていたではないか。観客は、けっして画面の枠の外へでない父の姿を見ていたはずなのだ。その姿を見ているのであれば、父が無責任だなどとは決して言えないであろう。画面の内に留まること。そこに存在していることが、父としての倫理であり、責任なのではないか。けっして父は、娘から逃げたりしないのだ。それは映画の画面が雄弁に物語っている。父がフレームの外に出ないということが決定的に重要なのだ。
ヤフーの一言レビューを読んでいると、映画を語る言葉の貧しさ感じた。その意味でも、『珈琲時光』は小津の映画のようだ。何も私だけが、この映画を理解できたのだ、と言い張っているのではない。私だって、確実に多くの映像を見逃している。それでも、この映画のなかで見たことを列挙すれば、とても「淡々としている」などのような評価はできないのだ。そのことは、繰り返しになるが強調しておきたい。

*1:このレビューを書いている人は、シネフィル的な知識を曝していて少しイタイ。映画をたくさん見ているようではあるが、肝心の画面は見ていないようなのだ。だから、父性の希薄さなどという、とんちんかんなことを語ってしまうのだ。→http://review.messages.yahoo.co.jp/bbs?action=m&tid=m320093&sid=2077605574&mid=34

*2:この辺あたりを参照した→http://review.messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=movies2&action=l&tid=m320093&sid=2077605574&mid=36