保苅実『ラディカル・オーラル・ヒストリー』

保苅実『ラディカル・オーラル・ヒストリー―オーストラリア先住民アボリジニの歴史実践―』御茶の水書房
これはすごい本だ。研究者は、もう何も言わず、いますぐ書店に行って購入するなり、オンライン書店で注文して手に入れ、徹夜でもして読むべき本である。ここ数年のなかで最も優れた研究書ではないだろうか。ものすごい衝撃力を持った本で、歴史学のみならず、すくなくとも人文系の研究者は強烈な知的刺激を受けるはずだ。この本を読んで何も感じないなんてことがあるなら、その研究者はすぐに廃業すべきだ、いや廃業せよ!!と言いたい。私はそれぐらい激しいインパクトを受けた。とてつもなく大きな可能性を秘めた研究書であり、この本で著者が問いかける問題は、アカデミズムに携わる者はみな真摯に受けとめて、自分なりに考えていくべきなのだと思う。輝かしい宝物を発見した喜びを感じた。
著者は、オーストラリアに留学し、そこでグリンジ・カントリーというところに滞在しながら、アボリジニの長老(とくにジミーじいさん)を師として「歴史」とは何かという大きな、そして根源的な問いにぶつかる。「歴史」を語ることができるのは誰なのか。アカデミズムにおける「歴史」が「正しい」もので、アボリジニの長老の語る「歴史」は「歴史」ではないと言える根拠は何か。そうしたことを問い続ける。この自分の研究の足元を救うような危うい位置に立ちつつも、そこから逃げずに真摯に「歴史」とは何かを考える研究姿勢には頭が下がる。この研究態度はぜひ見習いたい。
最近では、ポストモダニズムポストコロニアル研究が充分知れ渡っており、研究者もたしかにアボリジニの語る「歴史」も尊重しますよ、という態度を取るようになった。だけど、それはあくまでも自分たちアカデミズムの他者として尊重しますということであって、ここにアカデミズムの「歴史学」とアボリジニの「歴史学」の間に明確に線が引かれているようなのだ。アボリジニが語る「歴史」をアカデミックな「歴史」と同じように受けとることができますか?と著者は訴える。たとえば、アボリジニの長老はこんなことを語る、「アメリカのケネディ大統領が、グリンジ・カントリーに来た」と。そして、彼らはケネディ大統領にイギリスから来た白人に迫害されたことを訴え、それを聞いた大統領が「イギリスに対して戦争を起こして、お前たちに協力するよ」と言った。それがきっかけとなって、牧場退去運動が始まったのだ、と語るわけだ。
もちろん、我々の知っている「史実」では、そんなことは起きていないのである。となると、このアボリジニの語りは「歴史」と異なるとして「歴史」から排除してしまう。あるいは、もう少し良心的な研究者ならこの語りも尊重しますと言い、おそらくこれは何かを言い換えたものなのだろうとメタファーとして分析し始めるだろう。我々が扱うような「歴史」として向き合うことはないだろう。たとえば「神話」だと片づけてしまうのかもしれない。しかし、著者は、アボリジニの長老たちは大統領をメタファーとして語っているわけではないのだという。それは彼らの歴史分析なのであると。これを私たちの「歴史」観の枠内に収めることなく、真摯に受けとめることができるのかという大きな問いにぶつかる。

しかし、アカデミックな歴史学者はいまや、あらたな方法論的問題に直面しているのではなかろうか。それは、アボリジニの過去にたいして、西洋近代的概念としての「歴史」(のみ)を適用する根拠は何か、というより根源的な問いである。(p.183)

彼らの歴史と私たちの歴史を繋げることができるのか。他者をあるいは他者の文化を尊重する、ということは現代では当たり前になっている。だけど、それはあくまで私たちとは異なるものとして尊重してはいないか。
現時点におけるアカデミズムの限界点を示した本書の功績は今後、さまざまな分野でも応用できそうだ。ひさしぶりに読んで、ワクワクした本だったので、読んでいるときはかなり興奮した。こんな途轍もない重要な問題を考察しているのに、その文章はきわめて明解であるということも本書が優れている点の一つであると思う。いたずらに難解な理論の枠に当てはめることなく、具体的な事例から積み上げ、そこから聞こえてくる語りの声を誠実に受けとめた結果なのだろうと思う。
何度も言うが、この本はすばらしい。私も研究者を目指しているだけに、こんな本が書かれてしまったことに正直悔しい思いもする。自分がこんな研究をしてみたかった。嫉妬だなあ。はげしく嫉妬する。ほんとに良い本だ。
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