『仮面の告白』

三島由紀夫仮面の告白新潮文庫、1987年7月(改版)
三島の小説を論じるのは難しい。三島については、あまりにも多くのことが語られていて、他にもう言うことがないんじゃないか?と思ってしまう。これまでとは異なる読み方をしようとすると、余計罠にはまってしまうようだ。素直に『仮面の告白』は三島の自伝的な作品なのだ、と読んでしまったほうが良いのだろうか。
たとえば古い解釈では、文庫の解説のなかで、佐伯彰一は「『仮面の告白』という題名からして、その仮面性、フィクション性をもっぱら強調する見方が強いのだけれども、「仮面」の使用そのものもふくめて、これはやはり三島の自画像、自伝的小説と受けとる方がいい。ここには内なる魔物との格闘があり、この「私」は作者と血肉をわけ合っている。(p.234)」と書いている。
ここには、大塚英志がその物語論で批判する日本近代文学における「私」が現れている。つまり「私」と記した瞬間、それは作者の自己表出となってしまうシステムを自明として佐伯は捉えているということだ。同じく文庫の解説で、福田恆存も三島自身が「フィクション」であることを強調したとしても、逆にその「仮面」を「素面」と言いくるめる苦しさがあることを主張している。どちらにせよ、作者=三島由紀夫の内面の告白とみなす。これも「私」という語の持つ罠なのではないか。
たしかに、語り手を三島由紀夫というより平岡公威と見なせるように書かれてはいる。たとえば「公ちゃん」(p.94)なんて呼ばれていたりする。一方で語り手が読者を強く意識しており、自分がこう書きたいという欲望のままに書いているのではないことを否定する(p.118)のは、逆に作為を感じてしまう。どうも三島由紀夫という人は、素直ではないと思う。ひねくれた書き方をわざわざしていて、小説を読むことを厄介にさせる。こうした自己韜晦癖がいやらしくも感じる。それが三島の魅力なのかもしれないが。読者の反応をあらかじめ予測しているんじゃないか、とも感じられるし。ああ、ほんとにやっかいな小説だ。
ところで、『仮面の告白』にこんな一節を見つけた。園子からもらった手紙を有頂天になって開封する「私」。そこに見たのは――。

人目もかまわず、電車の中で封を切った。すると沢山の影絵のカードやミッション・スクールの生徒のよろこびそうな外国製の彩色画のカードがこぼれおちそうになった。なかに青い便箋が一枚折畳まれていて、ディズニィの狼と子供の漫画の下に、御習字くさいきちんとした字でこんな文面があった。(p.142)

「ディズニィのオオカミ」だって。何度も参照して恥ずかしいのだが、大塚の三島論が三島がディズニーランドに行きたがっていたことの分析から始まっていることを思い出す。ちょっと調べてみればよかったのだが、ディズニィーが日本に入ってきたのはいつ頃だろうか?。『仮面の告白』って戦時中の話だし。ちょうど空襲の話をしている時に、敵国アメリカを象徴するような「ディズニィ」が登場している、この違和感。すごく気になって仕方がない。

仮面の告白 (新潮文庫)

仮面の告白 (新潮文庫)