爆笑、フローベールって面白い

フローベールブヴァールとペキュシェ』(『フローベール全集5』筑摩書房
この小説は、もう笑うしかない。ほんとにすごい小説。傑作と言って良い。惜しいのは、完成前にフローベールが急逝してしまったので、未完成であるということだ。
ブヴァールとペキュシェという二人の中年男性が主人公。筆耕つまり字を写す職業をやっている二人が、ふとしたことで知り合って、片方に大金の遺産が入って、そのお金をもとに田舎で暮らそう、ということになる。そこからの二人の生活が爆笑。しかし、単純に笑ってはいられないのだけど。
二人はいろんな事に興味を持って、実行に移すのだけど、それがいつもことごとく失敗してしまう。農業もダメ、骨董品を集めてもダメ、科学の勉強をしても失敗。歴史小説にも関心を持ってみたり。他にもいろんな学問を勉強するが、毎回途中で挫折。宗教にまでのめり込んでしまったり。子どもの教育なんてやってみても、見事に失敗して手痛い打撃を受ける。
とにかく二人は知識を得るためにたくさんの本を集め、それを読みまくるのだ。本から得た知識を実際に試して、いつも失敗しているのだ。
でも、この二人を笑ってもいられない。知識を求めてあらゆる本を読みまくる姿は、まるで私自身のようだな、と思う。で、いつも挫折ばかりで情けないところなどは、まさしく「ブヴァールとペキュシェは、私だ!」と感じてしまう。
フローベールって人は、強烈な皮肉屋だなと思う。さすが、ヴォルテールを熱心に読み込んでいた人だけある。「知」への距離の取り方が、「凡庸」な友人であるマクシム・デュ・カンと一線を画している。
フローベールに限らず、フランスの19世紀の小説って面白い。小説が一番生き生きしていた時期だったのだなあとあらためて思う。個人的に思うに、プルースト以後はあまり読んでみたい小説ってないなあと。
それから、日本の自然主義は甘いな、と思ったりもして。『ブヴァールとペキュシェ』のなかで、二人が哲学にはまってしまう場面があって、そこから懐疑主義→虚無→自殺を考える、というまさしく「凡庸」な行動をしている。そのなかで、「死」を意識したのは、犬の死体を見たときだった。犬の死体が腐乱して蛆虫がわいているのを見て、「俺たちもあんなふうになってしまうのだ→むなしい→死」とあった。この犬の死体の描写などはけっこうグロテスクで、それが滑稽にも感じるのだけど、この部分からたとえば志賀直哉の「城崎にて」などを思い出した。
「城崎にて」も「死」を強く意識した作品ではあるけれど、蜂だの鼠だのゐもりの「死」のあっさりとした描写で、フローベールのように徹底して細部を描写することによって浮かび上がる滑稽さ、あるいは対象物との批評的な距離が、志賀直哉には見られないのではないか。蜂や鼠などの「死」にべったりと寄り添ってしまっているから。このへんが、日本の自然主義の「甘さ」なんじゃないかなと思ってみたり。
とりあえず、19世紀は最高!ということで。
一つメモ。19世紀のフランスの小説に多大な影響を与えているのが、ウォルター・スコットウォルター・スコット歴史小説、みんな読んでる。