保坂和志『もうひとつの季節』

保坂和志『もうひとつの季節』中公文庫、2002年4月
この作品は『季節の記憶』の続編にあたる。登場人物は「僕(中野)」とその息子の「クイちゃん」、そして、近所に住む「松井さん」とその妹の「美紗ちゃん」だ。主にこの4人の日常生活が綴られていく。この小説では、ごはんを食べたり、散歩をしたり、遊んだりといったありふれた生活と、「僕」の語る抽象的な議論(「世界」や「時間」や「死」とは何か)が、当たり前のように並列されている。どちらかに優劣の差違があるのではなく、日常レベルの話も哲学的な議論も、同じ水準で語られているのが面白い。
この小説では、二つのエピソードが鍵となる。ひとつは、「僕」の赤ちゃんだったころの猫と一緒に写った写真を見た息子のクイちゃんが、その写真の赤ちゃんと現在のパパが同一人物であることがなかなか理解できないこと。もうひとつは、松井さんが27年前と似たようなシチュエーションで同級生の「高階さん」と偶然に出会ったことである。
これらのエピソードは、「僕」に「世界」とは何か、もっと正確に言えば、「世界」が存在しているというのは、いったいどういうことなのだろうかについて考えさせることになる。「僕」は、「世界があること」をこんな風に語っている。

「世界がある」というのは、普段とてもよくわかっているつもりになっていることの隙間から洩れてきた混乱とか不思議とか驚きのようなことであって、赤ん坊だったときの写真に写っていた猫を見たときに僕は僕よりもさきにこの世界に生れていた猫がいたということを唐突に実感した。(p.84)

自分が生まれる前から「世界」がある、当たり前といえば当たり前の話なのかもしれない。しかし、だからこそ、何かのきっかけで「世界がある」ことに気がついたときの「混乱」とか「不思議」とか「驚き」の感情は大きいと思う。小説のなかで、松井さんは「僕」が言う「世界」や「時間」といった定義のできないものを「死」なんだと読んでいる。つまり、「僕」が「世界」とか「時間」といった言葉で考えていることは、みな「死」を指しているのではないかと。「僕」は、この考えに否定はしなかったが、それで全部が言い表せているとも思えなかった。
こうやって答えのない問題を、ああでもない、こうでもないと語り続ける保坂の小説は読んでいて楽しい。

もうひとつの季節 (中公文庫)

もうひとつの季節 (中公文庫)