今後の研究生活のために

今日、明日は所属講座内の院生発表会。半日かけて11人の発表を聞く。いろんな意味で勉強になった。自分が研究発表するときに役立つように、いくつか気がついたことをメモしておく。
先ず一つ思ったのは、発表の際には聞き手を意識することが大切だということ。
聞き手の興味を引く/引きそうな内容を発表することも大事だし、聞き手に理解しやすいように準備するのも重要だ。原稿を早口に読まれたのでは、聞き手としてはとまどう。たとえ、レジュメを読んで内容が理解できるとしても、聞き取りにくい発表は消化不良の感じが聞き手に残る。
二つ目。聞き手は、それほど賢いわけではない。
いきなり「この箇所は、サルトルの実存に通じるのです」みたいなことを言われても、サルトルの専門家の会合の発表ではない限り、聞き手はすぐに理解できない。「サルトルの実存って何?」という感じ。抽象語や、作家独自の用語などは、あらかじめ発表者なりに定義するなり、解釈を示し説明しておく必要がある。そうすれば、聞き手の理解もしやすくなる。それはお互いにとって有益だろう。
三つ目。文化史研究やあるいは言説分析といった研究がある。これらの研究の面白さは、実は引用する資料に左右されることが多い。言説分析で人気のある研究者を思い出してみればよい。たとえば、井上章一小熊英二の著作を読んだ人ならすぐに分かるが、彼らの本の面白さは、なにより引用する資料それ自体が面白いのである。そして、興味深い資料をより良く魅せる編集術もある。だから、大部の本であっても、私たちは飽きずに読み通すことができるし、楽しむことができるのだ。
逆に言えば、つまらない資料を引用して、いくらそれに緻密な分析を施しても残念ながらつまらないものにしかならない。資料をたくさん引用すればいい、というものでもない。
以上は、ある意味院生や研究者なら当然のことかもしれない。だけど、大切なことなので、ここで再確認しておく必要があるのだ。
発表会の後半、疲労で頭がボーッとしてしまったのだけど、そんな状態のなかで思ったことは、いったい「文学」を「研究する」ということは何なのだろう?という文学研究者にとって根本的な問いである。
正直に言うと、きょうの院生の発表をより、研究者ではない人がネット上で書いている書評などのほうがよっぽど面白いと思う。「へー、こんな読み方ができるのか」と刺激を受けることは、ネット上のほうが院生の発表よりも多いのではないか。それはなぜかと言うと、文学を専攻している院生の発想が堅いからだろう。あまりにも常識通り、通説通りの研究発表が多かった。はっきり言って発想が貧しい。けっきょく、院生はただ小難しくああだ、こうだ論じているだけで、中身は平凡ということが多い。この貧困さは、年々増加傾向にあるように感じるのは気のせいだろうか?
「もっと、刺激をください!」