学会に行ってみた

きょうと明日の二日間、北京大学で「北京大学日本学研究国際研討会」という学会が開かれている。週末は家でのんびりしたいので、はじめは行く気がしなかったが、中国の学会がどのようなものなのか興味が出てきて、散歩がてら学会を覗いてきた。
分科会のほとんどが日本語学あるいは日本語教育関連で、日本文学は二つだけだった。日本文学を研究している人があんまりいないのかなと少し残念に思った。
きょうは8つの研究発表を聞いた。正直に言うと、レベルの低い発表ばかりだった。中国人だけではなく、中国や台湾で日本語教師をしている日本人も発表していたのだが、この日本人の研究発表が良くない。自分の経験したこと、こんな授業をやっていますよ、といった話で終わっていた。発表時間がわずか15分と短かったからかもしれないが、研究発表というには中身がない。自分の教授法を発表してもいいが、きちんとそれを分析しないとだめだろう。私の目から見ると、全然研究のレベルに達していないものもいくつかあった。
たとえば、日本の自然主義が西洋の自然主義とどうして異なるのかといった発表だったのだが、ただ西洋の文学史の年表と日本の文学史の年表を並べて、西洋は何百年もかけて思想や文学、「自我」といった概念を作り上げてきたが、日本は近代になってそれらを焦って輸入しただけだったから、という結論。古い文学事典に書かれているような内容を話しているのだ。しかも、この説明で台湾の学生が納得してくれましたと言っていた。ああそれは嘘だなあと。絶対に学生は理解できてないよなあと思った。それにしても、ひどいステレオタイプなモノの見方だ!。日本語教師という異文化と関わる仕事の人が、こうもステレオタイプな考え方をしていて良いのだろうか。自然主義がどういうものか、事典じゃなくて、まず作品の一つでも読めと言いたくなる。ゾラを読んだのか、紅葉を読んだのかと…。
ほかにも、これは中国人の研究者だったが、自分の立場はナラトロジー物語論だとして、『雪国』の視点研究をしていた。ナラトロジーをやるなら、ジュネットぐらい読むのは常識なのに、参考文献にあがっていない。それはまあ百歩譲ったとしても、用語がむちゃくちゃ。おまけに、テクスト論なのに、川端康成の視点(=作者の視点)なんて設定しているし。それを言うなら「語り手の視点」であって、作者(川端康成)と語り手をはっきり分けないとだめだ。こうした基本的な理論を押さえていない。
全般的に日本の最新研究動向に目が向いていない発表が多かった。厳しい言い方をすれば、日本の研究から3、40年は遅れているのではないかと思った。日本人の先生も中国人の研究者も、文学作品の読みが牧歌的なのだ。中国での日本文学がすべてこのレベルだとは思わないが、もうちょっと日本の研究動向を取り入れていくべきだろう。
そんな低調な発表が続いたなかで、唯一、北京大学の大学院生の発表が良かった。『それから』の研究だったのだが、登場人物の「過去」を分析して、それぞれの人物の「過去」がどのように関連するのかといった内容。きっちりとテキストが読めていたし、発表もしっかりとできていた。さすが北京大学の学生だなと思った。ちょっと改良すれば、日本でも発表できるような研究発表だった。最後に良い発表が聞けて、学会に来た甲斐があったなあと一安心。分科会の終了後、思わず話しかけてしまった。北京に来てからというもの、日本文学の話をできる人がいなかったので、久しぶりに文学の話ができてうれしい。