読みの達人なのだ
◆高橋源一郎『文学じゃないかもしれない症候群』朝日文芸文庫
ありきたりの感想になってしまうが、やはり高橋源一郎は、いまの作家の中でも抜群に小説の読みが巧いのだろう。書くのが巧い人は、同時に読むのも巧いのかもしれない。それに、サイトの日記などを見ても、その読書量が半端じゃないし。この域に達している人は、そう多くはいないだろう。日本文学の研究者あたりでは、きっと足元にも及ばないだろうなあ。小説読みの達人じゃないと、『日本文学盛衰史』のような小説はたしかに書けないのだろう。
ちなみに、わたしが読んだ『野菊之墓』は明治文学全集54巻の第3ページから23ページまでを占めているが、15ページ以降の後半9ページだけで「泣」という漢字が49回も登場している。これではこちらが泣く暇がない。空涙。そんなことをいってはいけない(p.19)
『野菊之墓』について言及した箇所。この小説は悲恋だ、後半は涙・涙の大洪水と言う。このことを言うために、「泣」という漢字を数えるところが面白い。何気なく書かれている文章だけど、こういう分析をするところが、高橋源一郎らしいといえる。で、こうやって作品の核心を述べてしまっている。巧いなあ、と感心してしまった。これが、読ませる文章なのだろう。