「生れて、すみません」

今、三浦雅士の『青春の終焉』を読書中。これは1960年代論だったかと、今頃気がついた。
ところで、本書中では、太宰治を論じている箇所がある。そのなかにこの太宰の有名な言葉、「生れて、すみません」*1が出てくる。この一文を見ていたら、これって広告コピーみたいだなあと、全然関係ないことを思いつく。糸井重里みたいだ。
うーん、やはり、この読点が絶妙な効果を発揮しているのではないだろうか。読点のない文とちょっと比べてみよう。

「生れてすみません」
「生れて、すみません」

どうだろうか。読点一つでもその置き方によって、受ける印象はかなり違うのではないだろうか。「生れて」で一呼吸置くように、「、」が打たれ、「すみません」というある意味予想外な言葉が接続されている。読点を挿入することで、前後の言葉の対照がかなり明確となっている。「生れてすみません」と読点なしの文章と比べてみると、この「、」の持っている力が判然としてくる。ところで、「なんとなく、クリスタル」は田中康夫の小説のタイトルだ。たしか、大塚英志の本を読んでいたら、江藤淳がこのタイトルの「、」に批評性を見出していた、と書いてあったように記憶している。「生れて、すみません」における読点も同じように「批評性」を持った読点であると言えるのではないだろうか*2
また口調というかリズムもたしかに読点のある文のほうが良い。太宰の言葉のリズムに関して、三浦氏は参考文献を参照しながら俳句の存在を指摘している。また、太宰は口述筆記を行っていた。が、口述筆記されたと言われる作品にも、出来あがった作品とほぼ同じ草稿が存在したという事実も興味深い。つまり、人に口述筆記を頼む前に、自分でほぼ完成稿にちかい草稿を書いていた。で、それを頭にインプットし、租借しながら筆記者に語ったのだろうと言われる。要するに、太宰にとって重要なのは「語る」という演技性、パフォーマンス性だったということになるだろう。
それから、口述筆記という点に関してはドストエフスキーと通じる。口述筆記、自己意識、前近代性(太宰の俳句あるいは連句ドストエフスキーメニッペアと通じるというバフチンの指摘など)といったところで、太宰とドストエフスキーを並べるあたりに、この評論の面白さを感じる。

*1:『二十世紀旗手』で合ってます?。あと、これって太宰が友人からパクったって本当?>専門家の人

*2:と、なかば強引に論じてみる。