ジャック・デリダ『パピエ・マシーン 上』

ジャック・デリダ(中山元訳)『パピエ・マシーン 上』ちくま学芸文庫、2005年2月
この上巻には、「タイプライターのリボン 有限責任会社Ⅱ」というタイトルの、ド・マン論が入っている。ド・マンのルソー読解をデリダが詳細に読み込んでいる。ド・マンの分析も非常にすぐれたものであるが、さらにデリダがド・マンが誤訳(?)している箇所などを見つけ、それが単なるミスではなく、ド・マン読解にとって重要であることを論じていくところに感動してしまう。読み巧者デリダの本領が発揮された非常に興味深いド・マン論。
さらに、この論では「告白」や「弁解」することの意味を問うているのが印象に残る。ド・マンは、ルソーの分析において「最後の言葉」と「最後の言葉の一つ前の言葉」のちがいを考察しているという。デリダは、この分析を「独創的」(p.122)とし、この「最後の言葉」の逆説的な表現にこだわる。

わたしがこの「最後の言葉」の逆説的な表現にこだわりたいのは、赦し、弁解、過誤の赦し、絶対的な赦免の言葉は、あえて言えばつねに「最後の言葉」という文彩のもとで語られるからです。保証として、約束として、最後の言葉と物語の終末の意味として(「おそかれはやかれ」という想像上の論理のもとにせよ)語られない赦しの言葉は、そもそも赦しの言葉と言えるのでしょうか。(p.122)

赦しの言葉には「最後の言葉」の構造がそなわっているとデリダはいう。赦し、弁解についての議論を読んでいたら、この間読み終えた町田康の『告白』を思い出した。ルソーと同じ「告白」というタイトルだし、そもそも熊太郎は「最後の言葉」を求めていたのではないか。「弁解」という主題を考えてみる必要があるだろう。
デリダは、ド・マンがこの問題にこだわるのは「ド・マンはみずからここで、赦しと有罪性のあいだに代補性の論理を働かせている」と言う。続けて、「弁解は有罪性を消滅させるどころか、「過誤のなさ」をもたらすどころか、過誤をさらに増やし、過誤を作りだし、深める」とデリダが語る。「弁解」についての、デリダのこの考えが気になった。「弁解」のこの機能は、まさしく熊太郎にあてはまるのではないだろうか。というか、あてはめてみたい気がする。

弁解すればするほど、みずからに罪があることを語り、みずからに罪があると感じるようになるのです。弁解しながら。弁解するほど無辜でなくなるのです。こうした有罪性は、消すことのできない形で刻み込まれているのです。(p.125)

この文章などは、ほんとに熊太郎について述べているのではないかと勘違いするぐらいだ。熊太郎の弁解、言い訳、そして罪について分析する必要がある。
デリダから離れてしまった。この本には、さらにデリダのインタビューが収められていて、そこでは「紙」というメディアを考察している。ワープロやパソコン、インターネットと出版についてデリダが論じおり、メディア論をやるなら必読だろう。