『アララトの聖母』

◆『アララトの聖母』監督:アトム・エゴヤン/2002年/カナダ/115分*1
けっこう複雑な構成で、物語を理解するのにやや困難だった。物語展開も複雑だし、人間関係も複雑だし。複雑というか複数の関係が入り組んでいると言ったほうが正確かもしれない。いくつかの家族が登場しているのだが、その人びとは一つの歴史的な出来事を通じて微妙に交差する。その歴史的事件とは、20世紀の初めに起きたというトルコ軍によって150万人ものアルメニア人が虐殺されたことだ。トルコは、いまだこの事件を認めていないとあり、虐殺自体があったのかどうかという、「政治」の問題が絡んでくる。こうして、映画はある出来事を語ることの不可能性と可能性が主題となるのかもしれない。
語りの複雑さは、この映画は自己言及的な語りをすることから生じている。映画内では、一人の映画監督がまさしくこの虐殺事件を映画化しようとする。この映画内で制作される映画が『アララト』というタイトルの映画なのだから。どうして監督は、こうした入れ子構造をとる物語を作ったのだろう?虐殺事件を映画化する自分自身を言及することの意味は何か。語られない歴史を語ることの難しさ、ということを感じる。
思い出せば、アトム・エゴヤンは『エキゾチカ』でも入り組んだ人間関係を作り出していたような気がする。ある出来事を介して、何の関係もなかった人間が微妙に関係していく、という語りにアトム・エゴヤンはきっとこだわりを持っているのだろう。
それにしてもこの映画はうまく消化できないなあ。このアルメニア人虐殺とい史実も知らないし、重要な画家であるゴーキーについてもまったく知らなかった、というのも映画の理解を困難にしているのだけど、そうした外的な理由もあるのかもしれない。しかし、この映画そのものに、どことなく私には近寄りがたい雰囲気を感じる。率直に言うと、この映画の音楽がイマイチだった。映画の音楽が、時々邪魔に感じた。理由は分からないけれど、ただでさえ深刻な物語なのに、音楽がそれに拍車をかけるように深刻な雰囲気を作り出していて、それがこの映画の理解を妨げているのかもしれない。もし音楽がなければ、この映画はきっと私にもっと深い衝撃を与えたのに、と思う。*2

*1:参照:「「アララトの聖母」エゴヤン監督に聞く」http://www.mainichi.co.jp/life/cinema/kiji/0310/14-02.html

*2:付記:自分自身とは直接関係がないけれど、あるとてつもない出来事があって、その出来事によって、何かが変わらざる得ない状況に登場人物が陥るというアトム・エゴヤンの作風は、もしかしてオウムや震災以後の村上春樹と通じるところがあるのかなあ??