ジャン=リュック・ゴダール『アワーミュージック』

◆『アワーミュージック』監督:ジャン=リュック・ゴダール/2004年/フランス=スイス/80分
京都・大阪ではきょうからゴダールの『アワーミュージック』が公開された。初日のきょう、京都の新京極にある京極弥生座で、浅田彰氏のトークショーが行われるというので、わざわざ京都まで足を運んでみた。

「赤」の映画

ゴダールの映画は、一回見ただけでは理解できないものだが、筋は分からなくても映像を見ているだけで楽しい。『アワーミュージック』は、ダンテの『神曲』のように、地獄編、煉獄編、天国編の3部で構成されている。冒頭では、ビデオで撮られた画像の粗い映像がつづく。ここで映されているのは、戦争や人々が虐殺されている悲惨の映像である。画像が粗いために、はっきりと死体などが映るわけではないが、それでも見ているのが辛くなる映像であるのは間違いない。
つづく第2部では通常の劇映画の画面に戻る。第2部の煉獄編、第3部の天国編のあちこちで見ることができるのは「赤」色である。この映画は、「赤」の物語と言ってもよいぐらい、「赤」がちりばめられている。もちろん、「赤」以外にも色彩はあるのだが、特に「赤」が目立つ。赤色のマフラーや赤色の服、赤い花など事あるごとに赤色が画面に映り込んでいる。そして、赤と言えば、もっとも重要なものに、赤い鞄がある。
この赤い鞄をもった女性、オルガについては蓮實重彦も注目していたし、きょうの浅田氏も重要な人物であることを指摘していた。そのオルガが持っている「赤」色の鞄。ゴダールは「赤」という色に何かを象徴させようとしていたのだろう。
さらに、天国編では、最後にリンゴが登場する。映画全体にちりばめられた赤色が、最後に一個のリンゴにすべてが集約されると言って良いのではないか。赤いリンゴは、堕落へ導くものかもしれないが、それによって<世界>を「見る」ことが可能になったのだと思うと、映画の最後にリンゴを持ってきた意味は深い。アダムとイヴが赤いリンゴを食べなければ、映画など誕生しなかったのかもしれない。「見る」こととは何かを問いつめていった結果、ゴダールは一個のリンゴにたどり着いたのだと思う。

勝手にしやがれ』か?

さて、私もまたオルガという女性に注目してみたい。ピントのずれた映像でサラエボの街中を捉えた場面がある。画面の奥から手前に近づいていくる人物がいて、カメラがその人物の顔をアップで捉えたときにようやく画面のピントが合う。そして、その人物すなわちオルガは、隣に誰かがいるというつぶやきを発する。そして目をさかんに瞬かせる。画面の真正面を見つめるオルガの映像は、まるで観客を見ているかのようだ。そして、何かを口にするが声は消されているので、この時オルガが何を言ったのかは分からない。次に画面が切り変わりオルガを背後から捉えたショットになる。
この画面の真正面で女性の顔を捉えるのは、『勝手にしやがれ』のラストシーンを思い出させる。オルガもまたジーン・セバーグが演じたパトリシアと同じ、まったき他者である女性の系譜に連なる人物なのであろう。

切り返しショットとは?

映画中でもその重要性を「ゴダール」という役を演じるゴダールから指摘される「切り返しショット」。切り返しショットこそが映画を映画たらしめる最大の要素なのかもしれない。映画のパンフレットに収録されているゴダールのインタビューで、ゴダールは切り返しショットについて、こう答えている。

真の切り返しショットとは、二つの事項に等しい価値を置いて交互に示すのではなく、関係性による多くの問題を提起させるものです。

そして、ゴダールは「複数の出来事をどのように関連づけていいのかわからないときに、そうした出来事を検討するための方法であり続けている」と語っている。切り返しショットが何かを生み出すかどうかは分からない。だが、切り返しショットは問題を提起することがあるのではないかと、ゴダールは言う。切り返しショットは、非対称的であること、関係性による問題提起があるということ。ゴダールのこの考えに、とりあえず注意しておきたい。