越境の快楽から意味の消滅へ
いきなり冒頭部分に気が引かれる。こんなふうに書評を書き始めている。
「詩人とは、国語という樹木の枝の上で歌う小鳥なのだ」とかつてコクトーは言った。だが、ひたすら一本の樹木にだけ棲みついて歌いつづけ、生涯を終えるのも退屈というものではないか。「亡命」者の負の栄光だの、「移民」文学のマイノリティ性の意義だの、「クレオール」化による文化交雑の活力だのについて、力瘤を入れて説く人もいるけれど、そんなご大層な話はどうでもいい。ただ、生命の力が迸り出るまま羽ばたいて、飛び立って、別の樹木に降り立って、その枝にとまって歌ってみたいのだ。それが楽しいからそうするだけなのだ。
けっこう良いこと言うなあと。これは、「文学」者の言葉であって、文「学者」の言葉ではないなあ。「文学」は確かに「楽しいからそうする」ものであってほしいとロマンチックな感傷を抱くことも確かにある。とは言うものの、こういうことは簡単にはできないという。この書評を読んでいたら、すごく『エクソフォニー』が読みたくなる。松浦氏が引用している次の箇所は良い。
「母語の外に出なくても、母語そのものの中に複数言語を造り出すことで、『外』とか『中』ということが言えなくなることもある」。
非常に示唆的な言葉、少なくとも近代日本語の成り立ちを考える時に役に立つと思う。とりわけ翻訳文学などを考える際に。