ゆっくり楽しみたい

高橋源一郎『文学がこんなにわかっていいかしら』福武文庫

ぼくは小説家なので、きちんと小説を読むことができません。この場合の「きちんと」は「楽しく」という副詞とほぼ同じ働きをしています。小説は楽しく読むべきものなのだ、だいたいにおいて。(p.290)

おお、あの高橋源一郎でも、こんなことを述べていたのかと驚いた。書評やエッセイを読むたびに、どうしてこんなに文学を軽く読んでいるのだろう、うらやましいなあと思っていたので、この文章はちょっと意外だった。
つづけて、高橋源一郎は先の文章をこう説明する。つまり、小説を読むとき、どうしても職業上の関心が働いてしまう。それはたとえば、書き方の技術について目が向いてしまう。小説の仕掛けが気になるという。ほかにも小説を読みながらやらなくてはいけないことがある。

もちろん、いちいち頭の中で「(1)どういう技術が使われているかを見る。(2)書評をするとしたらどの部分を引用するかを見当つける。(3)この二行はマルケスの『百年の孤独』の43ページでアウレリャーノが娼婦の女の子とセックスする前に汗でぐっしょり濡れたシーツを二人で搾るシーンを真似たんだなあ、と思う。(4)この会話の部分はアレンジして使えるなあ、と思う」とか考えて読んでいるわけではないのだけれど、そういうようなことが頭の中でミックスされていることは事実なわけですね。(p.291)

うんうん、そうそう、と思いながらこの文章を読んだ。たしかに、こんな細かいことを気にしながら小説を読むわけではないが、似たようなこと、近いことはやっている。私などは、だから時々小説を読むのが「苦痛」だなあと感じたりもするのだけど。
まあ、でも多かれ少なかれ、誰でも同じなのかもしれない。何も考えずに小説を読む人なんて、おそらくいないだろうし。何かを読んでいるときは、同時に何かを考えているのだろう。斎藤美奈子は「小説はゆっくり読む」とたしか『文学的商品学』の冒頭で書いていたけど、これは至極正しいと思う。ゆっくり考えながら読むのも楽しいのかもしれない。それを「苦痛」だと感じるようでは、まだまだ文学の読み方が良くないのだろう。