特集=マンガ

  • ユリイカ』特集=マンガはここにある・作家ファイル45、2003年11月(35巻15号)

ユリイカ』でのマンガ特集。面白そうなので、いくつか読んでみる。読んでみて感じたのは、文学とマンガの違いである。たとえば、その一つを挙げてみる。それは、マンガ(とりわけ少女マンガ)が文学よりも受けるとしたら、それはおそらく現代の文学より現代のマンガのほうが、「モダニティ(現代性)」を巧みに表現しているからではないか。鈴木氏の矢沢あい論の結論にこんなことが書いてある。

矢沢あいの近年の作品に描かれているのは、僕たちが直面する恋愛そのものの困難だ。そしてそれが矢沢あいにしか描けなかったのは、彼女の作品がまさに「ギャルに対するポジション取り」という若者の恋愛を取り巻く状況と随伴してきたからであり、それを「誰にでも起こりうる問題」として受け止め、描いてきたからである。

この論に関する当否については、私が矢沢あいのマンガを読んだことがないので判断できないが、要はマンガが「誰にでも起こりうる問題」を描き、それがある人にはリアリティを持って受け入れられているという事態、そこに興味がある。なぜ、マンガにそのようなリアリティが描けるのか。はたして文学は、描けているのか?
かつては、美術にしろ文学にしろ「いまここ」というモダニティを表現するメディアだったはず。だが、それが映画に移り、いまやマンガへと移行してきたのではないか。ある時代のモダニティを表現するのにふさわしいメディアというのが、おそらく存在してかつては文学で、現在はマンガなのではないか、とそんなことを思う。モダニティの表現が困難になったとき、ある芸術は衰退しはじめるのだろうか。
さて、もう一つ興味を引くのは批評も問題である。鈴木氏論文では、冒頭部分で、なぜ矢沢あいの作品が受け入れられたかを考える際に、従来の「作家論」では的外れだと言う。なぜなら、少女マンガが、単なる「作品」のみならず、「コミュニケーションのリソースを提供するツールとして用いられている」のだから、社会学的な分析も必要なのだ。
このあたりを読んで、これは文学者と社会学者の違いが現れているのではと思った。私などは、古いタイプの文学者なので、どうしてもまず「作家」ありき、そして「作品」がどのように書かれているか、そのことに興味がある。鈴木氏が「社会学的な分析とは第一に、その作品が「何であるか」ではなく「何として受け取られるか」という視点から行われる」と記しているが、やっぱり作品が「何であるか」のほうが私には面白い。作品の受け入れられた社会的状況を分析する、ということにはどうもなじめない。
こうした批評の問題は、おそらく夏目房之介論文でも論じられていると思う。この論では「マンガは誰のものか?」という非常に大きな問題を扱っている。この問題は、マンガに限らず文学作品でも美術でも音楽でも、重要な問題で特に現代のネット社会では一番重要かもしれない。ここでも結論部から見てみると、次のような一節が書かれている。

結論だけいえば、ここで二項対立問題になっている「誰のものか」問題は、同じ表現作品の成立を社会の方から見るか、創作過程の方向から見るかという、ベクトルの違いだということです。

夏目氏は、この違いを整理すれば、マンガ家と批評家、読者とのすれ違いは勘違い、誤解は解けるのではないかと言う。私なら、文学者と社会学者のすれ違いも解けるのではないか、と思うところである。この二つの違いをどう乗り越えるか。批評とは何かという問題をこの点から考えてみたい。