綿矢りさ『夢を与える』

綿矢りさ『夢を与える』河出書房新社、2007年2月
前2作とすっかり雰囲気が変わっていたのに驚いた。いかにも「小説」らしくなっていて、それは作者の技術が良くなったのかもしれないが、逆に言えば「小説」という枠の中にきれいに収まってしまって、『インストール』や『蹴りたい背中』のときのようなふてぶてしさが無くなってしまっているように思う。
主人公が芸能人ということで、『蹴りたい背中』に登場していたモデルの女性を発展させた小説なのだろう。他者にどのように自分が見られるのかという自意識は、『インストール』以来、綿矢作品の主題になっていて、だから人に見られることが仕事である芸能人が主人公になったのか。
それはそれとして、主人公の「夕子」に、前2作の主人公の女の子に見られた「本能」というものを感じることができなかった。たとえば、思考よりも先に男の子の背中を蹴ってしまうような本能が見られない。
たしかに、正晃と出会って、性欲の赴くままに正晃との性交を繰り返すという点では、本能的な人物と言えるのかもしれない。だが、それは前作に比べると、矛盾した言い方になるが、小説の展開上計算された本能に思える。
おそらくこの小説が優れているのは、唯一肉体を持った人物の「多摩」を登場させたことにあるのではないか。多摩と夕子が魚の干もの作りをする場面がもっとも印象的だった。他の登場人物は夕子をはじめみんな肉体を欠いているなかで、「多摩」だけが肉体を持った人物として造形されている。だから、夕子は多摩に親近感を覚えていたのだろうし、最後に夕子が向かうのも多摩だったのだろう。夕子は肉体を自分自身の肉体を求めていたのだ。だが、すべてが崩壊して、肉体が自分自身に戻ってきたとき、その肉体は衰えていた。
巽孝之が本作の書評*1で、本作の特徴として「両親の恋愛から数えて四半世紀ほどの長い歳月を扱っているわりに、流れている時間がたえず「現在」であり、いっさいの「歴史」がうかがわれないことだろう」と指摘し、このような時間性の欠如に21世紀初頭の「不気味なリアリティ」を見ている。この読みは、なるほどその通りであろう。本作は、時間(歴史)を欠いた空間のなかで、肉体を欠いた登場人物たちが喘いでいる世界を描いているのだ。
[追記:2007/03/05]
この物語は、母と娘の関係が重要である。母の失敗を娘が繰り返す構図となっているが、彼女たちが何に失敗したのかといえば、それは「女」であることに失敗したのだ。「女」であろうとして、彼女たちは男に裏切られ、男たちに手痛いしっぺ返しを食らう。夕子は、母が「女」であることに失敗した姿を見ていた。そして、夕子また母と同じようの女であることに失敗する。夕子の場合は、まるで「女」になろうとしたことによって罰せられたかのようである。ここに、現代日本ジェンダー問題を見てもいいのかもしれない。女性が「女」であることを示すと(すなわち「夕子」と「ゆーちゃん」の差異)、それがなぜスキャンダルになるのかという問題だ。物語のなかで、正晃と夕子のみだらな映像がネットを介して流出した際、大きなダメージを受けるのは夕子であり、男である正晃はそれほど問題にならないのはどうしてなのか。正晃が夕子ほど売れている芸能人ではないという理由だけなのだろうか。
物語は、あるいは男たちはなぜ女性が「女」であることを拒否するのか。近代文学の歴史で、男性作家が「女としての母」であることをきちんと描いたのは「第三の新人」からだという(石原千秋『大学受験のための小説講義』ちくま新書)。ともかく、物語は女性が「女」であること許さないということが重要だと思う。女性が「女」であろうとすると、物語はたいていその女性を崩壊へと導くだろう。それは物語の権能だと言えるかもしれない。

夢を与える

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