小森陽一『村上春樹論』

小森陽一村上春樹論 『海辺のカフカ』を精読する』平凡社新書、2006年5月
最近、世界的に評価が高まっている村上春樹であるが、その『海辺のカフカ』を小森陽一が「辛辣」と言っていいほどに強く批判をしている。だが、その読解は左翼ゴリゴリで、はたしてテクストの「精読」の名に値するのか疑問を感じる。
小森氏の読みでは、『海辺のカフカ』を支配しているのは「女性嫌悪(ミソジニー)」である。「佐伯さん」や「岡持先生」や「さくらさん」といった女性たちを、男性が抑圧している構造を描き出した。村上春樹の作品にミソジニーがあるのは、別段目新しい指摘ではないと思う。だが、小森氏が『海辺のカフカ』を批判するのは、ミソジニーと歴史の否認(抹消)が接続されているからだ。国家(あるいは男たち)の起こした暴力を免責するために、女性たちが性的主体となることを罰している。ひいては、天皇の戦争責任を免責する物語だと指摘する。そして、国家や男たちの暴力は<いたしかたないこと>として処理されていることを強く批判している。こうした免責の構造が、読者に<癒し>をもたらしているとして、村上春樹作品がもたらす<癒し>を批判することになる。
だが、少し考えてみれば、本書の議論に説得力がないのが分かるだろう。村上春樹の作品から<癒し>を感じるのは、男たちだけでもないだろうし、日本人だけでもないのだ。たとえば、本書の「はじめに」でも、中国の読者も<癒し>を感じていると紹介されている。侵略戦争の記憶を否認する物語だというのに。要するに、本書の読みでは、なぜ現在多くの国で村上春樹が読まれているのか、そしてその作品から読者が<救い><救済><癒し>を感じているのかを説明することができないのだ。天皇の戦争責任を免責しているような物語を、どうして中国や韓国の読者が受け入れているのだろう。どうして女性嫌悪に満ちている物語に、女性の読者が<癒し>を感じてしまうのだろう。そのあたりをどう説明するのか。
本書の読みは乱暴だなと思う。

村上春樹論 『海辺のカフカ』を精読する (平凡社新書)

村上春樹論 『海辺のカフカ』を精読する (平凡社新書)