村上春樹『蛍・納屋を焼く・その他の短編』

村上春樹『蛍・納屋を焼く・その他の短編』新潮文庫、1987年9月
村上春樹の短編小説は面白い。これは意外だった。やはり食わず嫌いは良くない。なんでも読んでみることが大切だ。
あらためて指摘するまでもないが、この短編集を読んでいくと、うまく話すことができない人物がよく現れる。言葉の不自由というテーマを、語り手は饒舌に語っている。語りの内容と行為の矛盾。それが初期の村上春樹なのだ。
「納屋を焼く」は、傑作だと思う。「納屋を焼く」という男の一言が、「僕」の世界のありようを変化させてしまう。この急激な展開が見事である。
男は「僕」の家の近くの納屋を燃やしたという。しかし、そんな「納屋」は「僕」の近所にはない。「僕」はそれ以後、近所の「納屋」の前を走り続けている。「納屋を焼く」ということが、どういうことなのか「僕」にももちろん読者にもはっきりしない。「納屋を焼く」という男の言葉と、その男の彼女であり「僕」のガールフレンドの失踪。出来事の断片だけが、私たちの前に残される。
「納屋を焼く」ことを「僕」にだけ語った理由として、男はこんなことを言った。

「あなたは小説を書いている人だし、人間の行動のパターンのようなものについてくわしいんじゃないかと思ったんです。それに僕はつまり、小説家というものは物事に判断を下す以前にその物事をあるがままに楽しめる人じゃないかと思っていたんです。だから話したんです」(p.67)

「物事に判断を下す以前」すなわち出来事が意味へと落ち込む前の状態を楽しむこと。これは小説家に限らず、小説を読む読者にも当てはまる。

螢・納屋を焼く・その他の短編 (新潮文庫)

螢・納屋を焼く・その他の短編 (新潮文庫)