稲葉振一郎『経済学という教養』

稲葉振一郎『経済学という教養』東洋経済新報社、2004年1月
日記を調べてみると、この本は約一年前に読んでいる。一年経って、もう一度読み直してみると、なかなか面白い本であったことがようやく分かった。この一年、苦労しながらも、いくつか経済学関連の本を読んだおかげかもしれない。「教養」を身につけるも無駄ではない、「目の肥えた観客」になるためには必要なことなのだと、本書を読むことを通じて納得した。
本書では、「個人や企業に過大な負担を求めるな、とりわけシステムについての責任を負わせるな」(p.268)とあり、「不況は基本的には公共政策の課題であり、その対策への責任は政治家、官僚、そして政策立案者にかかわる限りでの経済学者・社会科学者にこそあって、一般企業や労働者・消費者にはない」(p.268)ということを強調している。だが、その一方で、この免責は「無能力の宣告とうらおもて」(p.268)であるともいう。マクロ的な経済政策については、間接民主主義を基本とせざるを得ない。「しかし、この事実が同時に、人々に無力感を味わわせているもいるのではないか」(p.268)。
この箇所を読んで、これだと思った。リフレ派の議論はまったくその通りだと思いつつも、いつも何かひっかかっていたのは、不況に対し個人は何もすることがないなあということだ。そう、この「無力感」なのである。(こんなことを感じるのは、マクロ経済が分かっていないからか。)しかし残念ながら、どうやらこの問題は相当複雑なものらしく、「構造改革」のように分かりやすい話ではなさそうなのだ。それが分かっただけも、良しとするしかない。
本書の第7章では、マルクス経済学が論じられている。ここで、マルクス経済学の「核心」だという「搾取理論」が批判されていた。内容はこうだ。
マルクス経済学の「核心」は「労働の搾取の理論」にある。ポイントは二つ。1)労働者は「剰余労働」を資本家に奪われている、2)労働者が資本家に売るのは「労働力」であり「労働」ではない。これらによって、資本家と労働者の権力関係を批判することができた。しかし、資本家と労働者の間の経済格差や不平等の説明はできても、肝心の「不平等」を批判するロジックとしては使えないという。
なぜなら、一つは「搾取」があるとしても、労働者と資本家の取引は自由な合意に基づくものであるからだ。労働者や自力でやるよりも、資本家から賃金をもらうほうがより大きな利益を得られると判断している、というわけである。もう一つは、「搾取」のない経済はありえないということ。成長する経済や再生産の継続が可能な経済では、労働に限らずほとんどすべての財やサービスについての「剰余」が必要なのだ。こうした理由から、「搾取」を不正だと告発することは難しいとなる。(p.190-191を引用および参照)
ここを読んで、ふと先に読んだ『「資本」論』を思い出した。マルクス経済学がいう「労働力」を「人的資本」として改良したものが、『「資本」論』で説かれた「人的資本」論なのかなと。マルクス経済学では、「労働者が資本家に売るのは「労働力」であり「労働」ではない」ということがマイナスの評価であったが、これをポジティヴに捉え直したのが稲葉氏の「人的資本」論なのではないか。

経済学という教養

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