松尾匡『近代の復権』

松尾匡『近代の復権――マルクスの近代観から見た現代資本主義とアソシエーション――』晃洋書房、2001年2月
序章の冒頭で「マルクスの全体系は疎外論でできている」(p.1)とはっきりと主張している。普通、マルクス疎外論は初期にとどまっていると見られているようだが、著者はマルクスそしてエンゲルスの議論はすべて疎外論で一貫していることを指摘している。本書は、そのことを説明しつつ、一方で疎外論で作られているマルクスの思想を現代に甦らせる理論を考察している。
フォイエルバッハから受け継がれているという疎外論に関する議論は、とても面白いものだった。フォイエルバッハは、神とは人間の本質が外に投影されたもの。神に人間の本質を全部投影させてしまうので、人間は本質を失った抜け殻になってしまう。で、神の前にひれ伏すことで本質を取り戻すことになってしまう。こうした在り方をフォイエルバッハが批判する。本質が外に飛び出て、それが逆に人間を支配してしまう構造。これをマルクスは受け継いで、国家批判などを行うということになる。
それから私がなるほどと思った議論は、唯物論対観念論に関する議論だ。この対立から、私はいつも物質対精神の対立を想起していたわけだが、少なくともマルクスに繋がるカント、ヘーゲルフォイエルバッハらにおいては、必ずしも唯物論対観念論=物質対精神というわけではないらしい。そもそも、フォイエルバッハの疎外された理性からの感性の解放が唯物論となるのか。
本書によると、彼らの対立図式は《観念=理性(悟性)》と《感性=感覚=「傾向」=情念=本能》の間の対立である(p.229)ということだ。この指摘は重要だと思う。たしかに個々人の持つ「感性」と普遍性を持つ「理性」との対立で見たほうが、ヘーゲルも理解しやすいしマルクスも分かりやすくなる。精神と物質という対立でもって、ヘーゲルだのマルクスを読んでいてもいまいち理解できなかった。この指摘は目から鱗が落ちた。こういうことを知ると、またマルクスの本が読みたくなってくる。いや、マルクスだけではなく、フォイエルバッハヘーゲル、カントまで読んでみなくてはと思う。マルクスの理解に非常に役立つ本。