原宏之『バブル文化論』

◆原広之『バブル文化論 <ポスト戦後>としての一九八〇年代』慶應義塾大学出版会、2006年6月
私にとって常々、80年代やバブル期のカルチャーは憎悪の対象であり、それゆえに80年代論に強い関心を持っている。特にバブル期の現象など、私にとっては揶揄の対象でしかない。本書で取り上げられ分析されているモノや人を読みながら、本当に愚かな時代だったのだなとあらためて思う。
こんな思いがあるので、私は80年代やバブル期をいまだに冷静に見ることができないのだが、本書は郷愁でもなく揶揄でもなく80年代を捉えている。本書では80年代を、戦後との混沌期である80年代前半、それから戦後との断絶期にあたる84年から86年、バブル期への移行期間である86年から88年、そして88年から93年のバブル文化期に細かく分節化して分析しているのも興味深いし、なにより「歴史」をいかに描くのかという、ある意味坪内祐三の本と同じ問題を持っている点は重要だ。
80年代論はいくつかあるが、本書が他と異なる点は、80年代=おたく文化を間違いだと指摘したところだと思う。この指摘は新鮮だった。たしかに、これまでは80年代というと「おたく」に偏りすぎた感があると思う。80年代を「おたく」に代理=表象させるには、無理があるのかもしれない。この問題は、今後80年代を研究する者は考えなければならないだろう。これは本書が提出した重要な論点である。
ところで、個人的に注目したのは、「八〇年代後半の消費文化を演出した団塊世代(一九四六〜五二年生を中心とする)と新人類世代(一九六〇年代生)は、「転向」と「敗者復活の可能性」を共有する」(p.158)という指摘である。私はこの二つの世代を強く批判しているので、なるほどなと思った。この世代は、偶然なのかどうか分からないが、要するにいろいろな面で恵まれていたのだ。つまり、「転向」や「敗者復活」ができるほどの経済的な余裕が偶然にも社会にあったのだ。だが、彼らはそれを自分たちの実力だと勘違いしている。単に条件に恵まれていただけにすぎないのに、自分たちには実力があると思い、うかれている。この世代特有の奇妙な明るさ(脳天気さ)は、そんなところから出ているのではないか。私にはそう見える。――

バブル文化論―“ポスト戦後”としての一九八〇年代

バブル文化論―“ポスト戦後”としての一九八〇年代