『三島由紀夫とテロルの倫理』

◆千種キムラ・スティーブン『三島由紀夫とテロルの倫理』作品社三島由紀夫とテロルの倫理
とうとう出たか!。そうか、やってしまったなあという印象はまぬがれない。そう、「9・11」と三島を繋げて論じているのだ。いかにして、三島由紀夫がテロリストになったのか。そして、何を企んでいたのか。この本が分析していることは、そういうことである。そして、三島の「テロルの倫理」を現代のテロと対照させて、テロの根底にある思想を考えてみよう、ということらしい。
なんでも、日本の文学者は、三島をテロリストだと言うと、どうも不満らしいと言う。著者は、もうはっきりと三島の行為をテロ、あるいはクーデターだと割り切って、どうして三島がそんな行為に走ったのか、三島の言葉や、三島の近くにいた人の証言を引用しつつ、論じている。
とは言うものの、三島の友人の村松剛とジャーナリストのヘンリー・スコット=ストークスの情報、そして最近出た自衛隊で三島たちを訓練した山本舜勝の本にほとんど依拠している。これらの証言を、ただうまく話が合うように繋げて、当時の社会状況を補足して論じただけの平凡な研究書にすぎない。まったくの期待はずれ*1
文章も下手で、何度も同じことをくり返し述べるし、同じ引用を再三にわたって繰り返す。たとえば、著者は、村松剛の証言による三島の次の言葉「昭和45年の安保騒動、おれが斬死する」を何度も用いる。これが、三島のテロの倫理だというわけだ。私は、著者がこういう三島の証言をそれらしく繋いで、強引に著者の考えに結びつけているなあと感じた。しかも、著者が作り上げた三島像が「凡庸」なだけに、退屈なことこのうえない。
豊饒の海』の読みにしたって、ほとんど執筆時の状況と重ねてしまって解釈していて、三島がクーデターの可能性が無くなったことを悟ったことが、小説のプロットまで変えたのだとまで述べている。たしかに、それらしい状況を持ち出しているけど、小説の読みとしてはいかにも平凡。まだ、大塚英志の三島論のほうが刺激がある。

畢竟三島は、戦前の「現人神」天皇信仰がうんだ「憂国」の士に他ならなかったのである。(p.275)

これが、著者の言いたかったことだ。戦前の教育が、三島由紀夫というテロリストを生み出したのだ、ということになるだろう。この結論は、それなりに理解できるが、それよりもまず、三島の作品を読もう。まずは、そこからだ。三島研究の場合、「三島由紀夫」という物語があまりにも強烈な印象を残したために、どうしても作品のほうがつい見逃されてしまうことが多い。多かれ少なかれ、たいていの研究者は「三島由紀夫」という物語に引きずられてしまう。三島由紀夫の小説、あるいはエッセイやら書簡に至るまで、それらはみな「三島由紀夫の死」という事実に収斂していく。まるで、三島由紀夫の書いたものはすべて、「三島由紀夫の死」という運命に抗うことができないかのようだ*2
端的に言って、それでは面白くないと思う。とりあえず、「三島由紀夫」なんていう存在を無視してみたらどうか。作品中の言葉を一旦はベタに読んでみても良いのではないだろうか。素知らぬ顔で「三島由紀夫」をやりすごすこと。ということを、いつも私は考えているのだけど、私にはそれをする能力がない。私もやはり「三島由紀夫」の影に支配されてしまうのだった…。

*1:というか、そもそも期待していなかったが

*2:三島はある作品で○○ということを書いている、だから三島はあんな凶行をしたのだと論じることが多いということ