誤読や誤解なのかもしれないけれど…

あまり自分の読みに自信がないのだけど、頭のなかで考えているより、書いてしまったほうが、何が問題なのかが見えてくることがあるので、とりあえずのメモとして以下記してみる。
『絶望 断念 福音 映画』の感想を書き、勢いで余計なことまで書いてしまった後でも、まだひっかかっていることがある。何にひっかかるのかというと、宮台氏の理論はたんなる思い入れ、あるいは幻想にすぎないのではないか、ということだ。
かつてブルセラ女子高生にコミットして、女子高生に幻想(妄想?)を抱いたように、<世界>あるいは<脱社会>的な存在に現在は過剰な幻想を抱いているのではないだろうか?分析の対象や自分の編み出した観念に幻想を抱いてしまうというのは、氏の癖もしくは欠点ではないだろうか?
おそらく<社会>を相対化するものとして<世界>があるのだと思うのだけど、ほんとにそんなものがあるのかなあ?というのが最大の疑問。たとえば、こんな文章。

幼児期には<社会>と<世界>はアニミズム的に一致し、あらゆるものがコミュニケーション可能だと信じられる。思春期に<世界>は脱社会化、<社会>は人間化する。そして<社会>の外にコミュニケーション不可能なものとしての<世界>が拡がるという感覚を抱き始める。(p.292)

こんな風に、さらりと<世界>と<社会>について述べられているのだけど、これは一般的に認められる事実なのか、特殊な人間だけが感じていることなのだろうか?私は勉強不足なので、この文章の下敷きになっている理論なり学説を知らない。なので、これは間違いだ、と指摘することはできないけど、たとえばこの本の読者はさらりと読める箇所なのだろうか?
で、まあこんなふうに、<世界>というものがあたかも存在するかのように、この本のなかでは語られているように思えてならない。存在するとか存在しないとかではなく、感じるか感じないかの問題なのか?。残念ながら、私にはよく分からない。しかしながら、氏は<世界>があること(あるいは感じてしまうこと)を自明の前提にして論じている。だから、私にはついていけないのだと思う。
ついでに、ちょっとだけ私の考えというか妄想を付け加えておくと、<世界>なんてものを語り出した宮台真司に、社会学が必要なのだろうか?それでも、社会学なのか。もう宗教で良いんじゃないかなあと思う。うまく説明できないけど、<世界>なんてことを言いだした時点で、社会学の限界をいや敗北を宣言しているのではないだろうか?