宮台真司『宮台真司interviews』

宮台真司宮台真司interviews』世界書院、2005年2月
ようやく読み終えた。活字が一杯詰まった本なので、けっこう読むのに苦労した。でも、中身はかなり面白いものだった。読み終えて満足の一冊。
ここ10年の宮台氏の発言をまとめた本なので、これを読み通すと、氏の思想遍歴が分かる。この意味でも重要な本かもしれない。印象としては、はじめはまるで暗記マシーンのように、あらゆる問答を想定し、機械にように答えているようだった。これはけっこう読者にとっては有益かも。なにせ、それこそチャート式のように思想が整理されているので、知識の整理に使える。
それから数年たつと、自分語りが入るようになる。自分語りのほうが、私は興味を持つのだけど。でも、自分語りのほうに興味を持つ読者って、宮台氏は嫌いそう。というか、たしかに迷惑だよなあ。
それはともかく、とりわけ興味がある箇所を一つ抜き出せば、次の箇所になるだろう。これは巻末付録の部分にある文章だ。

最近の僕は「援交少女たちを、高い流動性の中でも心の平安を保ちうる存在だと期待していたら、期待外れだった」と表現しています。実は、そのころまでは、「超越的な特異点――究極の意味――に帰依しないと心の平安が得られない」というオウム的な思い込みを中和するべく、「高い流動性の中でも心の平安を保つことができる」ブルセラ的存在を賞揚しようと思っていたんです。(p.392)

しかし、周知の通りこれが「無理だった」(p.392)となるわけだけど、「超越的な特異点」がないと心の平安が得られないという部分が気になる。東浩紀氏がこだわるのも「超越的な特異点」が必要とされているのか、ということだったなあと思うのだ。東氏は、端的にもうそれは必要とされていないと言う。それが「動物化」だと。東氏は、おそらく「超越的な特異点」にこだわるのは、少数派だと考えており、分析の対象にはならないのではないかということらしい。このあたりに、二人の対立点すなわち時代認識の差異が生じている、私は思った。
もう少し補足しておく。宮台氏は「コギャル」分析を通じて「まったり革命」を称していたとき、おそらくそこに「動物化」した世界を見出していたのだ。つまり東氏が言うような「メタ」を必要としない、あるいは「メタ」を必要としない動物的に生きる環境が用意されたのだと認識したのだと思う。しかし、その後の「コギャル」の動向を通じて、宮台氏はその認識がやや早すぎるものだったと気がついたのだ。東氏から見れば、いまの宮台氏は否定神学的だし、宮台氏から見れば、東氏の認識はやや甘すぎるということになるのだろうか。
私は今のところ、どちらかと言えば宮台氏の認識のほうに妥当性を感じる。だからこそ、実存的なモードの宮台氏に興味・関心があるのだ。
宮台氏の中学、高校時代の話を読みながら思い出したのは、四方田犬彦の『ハイスクール1968』ISBN:4103671041サブカルチャーやアングラへの耽溺は、二人ともに共通していることだし、そのことが後の評論に活かされていることも共通している。そして、何より二人とも「祭のあと」の挫折といえば良いのか、要するに「政治」の挫折を中学・高校時代に味わっていることだろう。宮台氏ふうに言うなら、二人とも「非日常」から「日常」へ戻ることができなかった、というわけだ。

宮台真司interviews

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