巨大な城が動くこと

◆『スチームボーイ』監督:大友克洋
公開が始まったところで、私は何の情報も持たずに見たのだけど、かなり楽しめるところが多い映画。巨大な城が動く、空中に浮かぶのがミソ。今度の宮崎アニメも城が動くものらしいけど、動かないものを動かす欲望が日本のアニメには存在するのだろうか。そもそもアニメにおける「飛行」のモチーフもすごく気になるところだ。自由に空中を飛ぶことが、主人公の特権なのではないか。空中を自由に飛ぶ者だけが、あらゆる場所に行くことが可能になり、それはたとえば敵/味方といった境界線をもらくらく飛び越えていく者となる。こうした周縁者の性格は注意しておいてよい。
この映画を見てすぐに気がつくことは、「大きいもの」と「小さいもの」の二つモチーフの対比だろう。巨大なスチーム城に対し、少年レイがいる。スチーム城はレイの祖父が考え、父が設計したもの。その辺ふまえると、息子が父を乗り越える物語が一つ考えられる。
その一方で、物語が単純に二項対立ではないところに、よく考えられたシナリオだなあと思う。「小さいもの」を少年レイ(個人)だとしても「大きいもの」はさらに二つに分かれる。「国家」と「資本」の対立という線が引かれているからだ。「国家」を代表しているのが、スチーブンスンで、彼は科学と国家を結びつける。国家は、科学と共謀し、その偉大さを誇るだろう。この映画の時代設定は一九世紀の中頃というのが面白い。しかも舞台は、ロンドンの万国博覧会の会場。有名なクリスタルパレスだ。言うまでもなく、万国は国家がいかに「偉大」であるかを知らしめるものだ。
一方で、資本を代表するオハラ財団があり、ここが科学を純粋に資本のために用いる。資本を巨大にするために、科学を利用しているのだ。そして、国家と対立してしまうというのは、一九世紀という時代がなせるところか?
レイの祖父ロイド博士が体現しているのは、国家にも資本にも利用されない科学の純粋さだろう。科学が科学として自律していること。ロイド博士の純粋さもなんとなく一九世紀らしい。
ここでは、国家と資本と科学の三つがまだ結びついていない。私は、この三つが結びつくと、じゃあそれは一体何になるだろうか?と考えてみたくなる。
そして、この三つの世界を自由に行き来するのが、主人公の天才発明少年のレイだ。なぜ、レイがどこにも所属せずに、自由に行動できるのか。それは、先に述べたとおり「飛行」が成せる技。ではなぜレイが自由に「飛行」が出来るのか、といえばレイが天才発明家、技術を備えた人物だからだ。技術を持った人間こそが、自由な存在である。それは、たとえば『スターウォーズ』などに流れるヒッピー文化ともつながる。しかも、それはオタクへも繋がっていくことは森川嘉一郎趣都の誕生』に詳しい。参考までに、引用しておこう。

このように技術とは優れて文化的な産物であり、また文化そのものである。パソコンの普及とともに世界を覆っている情報技術は、「グローバル」な属性ものにみえて、その実ハリウッド映画と同様にアメリカ文化に対し、そのヒッピー的な下方指向性と親和しつつも、まさしくその下方指向性に沿って、その技術を自分の趣味に同化させようとする態度がオタク趣味の基調を成している。<アメリカ>の失墜によって発生したムーブメントから、<未来>の喪失がもたらした趣味へという、喪失の文化の系譜が、そこに受け継がれている。(p.220)

レイの父が巨大なスチーム城を動かし空中に浮遊させることは、人間のあるいは科学技術の「傲慢さ」であり、したがってそれはすぐに墜落することになる。もちろん、墜落はパニッシュメントなのだろう。一方で、その場その場で、臨機応変に道具を加工し、利用するレイが活躍できるのは、「オタク趣味」の力なのだろうか。