どこか物足りない気がしないでもない
◆斎藤貴男『安心のファシズム』岩波新書
イラク人質事件についてから、本書は始まる。国内世論の人質となった人たちへのパッシングが、本書のきっかけとなっている。この問題は、「一過性」のものではない、と。著者は、「深刻にうけとめなければならない」と考える。こうした世論が登場する原因は何か。今の日本社会に何が起きているのか?
そこで、本書で取り上げられているのは、たとえば「携帯電話」「自動改札機」あるいは「監視カメラ」であるように、昨今取り沙汰されるテーマである「監視社会」の実態が分析される。
そして、エーリッヒ・フロムを参照しながら、主張されるのは、人々が実は「自由」から逃れたがっているのではないか、ということだ。自分で何か考えるのではなく、何かに代わりにやってもらう。そんな社会。本当は複雑な厄介な問題が起きているのかもしれないけど、それによって葛藤が生じてこないことを「コンフリクト・フリー」という。そんな「コンフリクト・フリー」な状態が、進行しているのかもしれない。
新自由主義と新保守主義のコンビネーションという流れ。けっこう根が深い。
新自由主義だからである。グローバリゼーションの名の下に、市場経済の邪魔になる要素を除去していけば、ただでさえ存在する貧困や差別がますます酷くなるのは当然だ。新自由主義とは必然的に、犯罪の温床になり得る不幸を拡大再生産していく宿命を伴うのだ。(p.168)
一方で、国家は、市場経済の邪魔をするものをせっせと取り締まるようになる。今や国家の役割は「夜回り」だ。静かに、思想統制なんかが行われていて、けっこうシビアな問題なのかもと。国家も隙をついて、いろいろ仕掛けてくるものだ。大衆の欲求を、うまく国家に利用されてしまうと、なかなか手強い。ファシズムは、何も独裁者のみによってなされるものではないから。
ファシズムは、そよ風とともにやってくる。
これまた珍しくもない常套句だが、かつ、忘れられてはならない警句でもある。独裁者の強権政治だけでファシズムは成立しない。自由の放擲と隷従を積極的に求める民衆の心性ゆえに、それは命脈を保つのだ。不安や怯え、恐怖、贖罪意識その他諸々――大部分は巧みに誘導された結果だが――が、より強大な権力と巨大なテクノロジーと利便性に支配される安心を欲し、これ以上のファシズムを招けば、私たちはやがて、確実に裏切られよう。(p.232)
ところで、ブッシュと小泉の共通点というのは、「複雑な事象を短いフレーズで単純化してしまう」という言語表現にあるという。そして、「それ以上に、「誠意」とか「真心」、「責任」「思慮」「深み」「呻吟」などといった要素の一切合切が、決定的に欠損している事実を承知しておきたい(p.209)」という。
これも、けっこう重要なことなのでは、と思う。単に二人の個人的な資質の問題というだけではなくて、もしかして大衆が、こうした単純化したフレーズを密かに求めているのかもしれない。最近、「わかりやすい表現」を求められるけれど、本当は分かりやすいものではないのに、むりやり分かりやすくしてしまうことはないだろうか。