クリストファー・ノーラン『バットマン ビギンズ』

◆『バットマン ビギンズ』監督:クリストファー・ノーラン/2005年/アメリカ/140分
バットマンと言えば、やはり舞台となるゴッサムシティが欠かせない。今回は、バットマンの誕生秘話なので、バットマンブルース・ウェインの修業時代から物語が始まるのだけど、最終的にはゴッサムシティへと物語は戻ってくる。
バットマンの精神的な原点となるのが、子どもの時に庭にあった涸れ井戸に落ちたことであった。そこで見たコウモリ=恐怖が、両親がチンピラに殺害されたという体験と繋がり、したがってこの恐怖=トラウマを克服することがバットマン誕生へのプロセスとなる*1。この映画でも、物語を動かす力、ヒーローを突き動かすエネルギーとなっているのがトラウマであることには注意したい。つまり、物語の構造は、この前に見た『レイ』や『アビエイター』と同じなのだ。この物語のパターンが、ハリウッドで流行っているのだろうか?
さて、私はこの映画は良くできた作品だと思った。表現主義映画以来の要素が、しっかりと押さえられていたので、製作者たちはとても良心的だなと感心したのだ。
一つは、未来都市の映像。これはしばしば言われることだが、物語の舞台であるゴッサムシティの景観は、フリッツラング『メトロポリス』から『ブレードランナー』に至る未来都市の映像を受け継いでいる。超高層ビルやそのビルの間を通り抜けて走るモノレールなどは、だれもが見覚えのある映像だ。
表現主義映画といえば、『カリガリ博士』が有名だが、これは映画では同じみの「マッドサイエンティスト」の映画だ。マッドサイエンティストは、もちろん今回の『バットマン ビギンズ』に登場している。『バットマン ビギンズ』では、このマッドサイエンティストが製造する幻覚剤がゴッサムシティをパニックに陥らせるが、この幻覚剤を吸った人たちの幻想の映像などは、あきらかに表現主義的な歪んだ映像となっている。たしかマッドサイエンティストが、霧に包まれた都市を馬に乗って逃走していく場面が途中にあった。この中世的な幻想場面も表現主義映画的である。
つまり、この『バットマン ビギンズ』では表現主義映画的なマッドサイエンティストや怪奇的要素をふんだんに取り込んでいることが分かる。このような点に私は感心し、それゆえこの映画は良くできていると評価した。
ところで、この映画で重要となるのは「正義」である。バットマンは悪人たちの「恐怖」であり、市民には「正義」の象徴として、ゴッサムシティの闇の中を活躍するだろう。「正義」と「自由」の関係。あくまで私の妄想だが、「バットマン」とは、昨日読み終えた本『他者への自由』の具体的なモデルとなるのではないか。「バットマン」がいなければ、悪人たちは「自由」を濫用し、他者を踏みにじる。このような「自由」の暴走を食い止める「正義」=「バットマン」という構図――。そんなことを考えていた。

*1:井戸と恐怖と言うと、日本の観客は村上春樹を連想するのではないだろうか。あるいは舞城王太郎熊の場所』など。