近代的な読み方

松田修『日本近世文学の成立』法政大学出版局
予定では、昨日読み終えるつもりだったのだけど、読み終える前に寝てしまって今日になってしまった。
近世文学には関心を持っているが、大雑把な知識しかないので、この本の内容が現在の研究ではどういう位置づけなのか知らない。もう30年以上前の研究だから、当然批判もあるだろうし、乗り越えられているのかもしれない。が、けっこう勉強になるし、近世文学研究はまだまだ手つかずのところがたくさん残っているのだなあと思った。有名な西鶴近松に関する論は、なんとかついていけるが、他の人物になると専門的すぎて理解できない。古典の研究書を読んで悔しいのは、こうした研究家のみにしか知られていない作家なり人物が論じられていると、私のような専門外の素人には理解できなくなってしまうことだ。もっと勉強しないといけない、ということなのだが…。

『一代男』では、人間が、すくなくとも人間への意志が、存在する。もちろん、そこにもなお、遍歴という事件的前提(枠づけ)のためにのみ行為し、はなしの面白さのための単なる傀儡にすぎぬ、そのような要素が払拭されているというわけではない。しかし、それらを超えて、ここには世之介の内的必然に導かれた、その意味ではじめて人間的な行為が、不十分ながら形成・叙述されているのである。(p.266)

要するに、西鶴より前の仮名草子などは、「はなし」の面白さという点に力が置かれており、事件の展開などが奇抜であればあるほど面白い。が、たいていはそうした奇抜さはパターン化されてしまうので、マンネリが生じることになる。そんななかで西鶴が『一代男』を書いた。で、著者は、西鶴の「一代男」に「内的必然」性のようなものを見出す。こうした「内的必然」をもった1人の「人間」を表現することが著者にとっての「文学」というわけだ。

そこに存在するものは、人間である前に一つの方法であり、一つの手段であるにすぎないのである。文学が、人間表現を究極とするものであるならば、それは当然克服されるべき段階ではなかったか。(p.266)

内的必然をもった1人の人間が登場する「文学」とは、やはり近代になって登場する小説のことに他ならない。要するに、著者の評価軸には、近代の小説観あるいは文学観というものがある。近世の作品に近代的なものが見出せるかどうか、この本の底流にあるのはそれだろう。
この論理からすれば、「趣向」を取り入れることに傾いていった近松の世話物に近世文学の「限界」を見出すのは当然のことだ。

このようにして、内面的芸能への道、近代的戯曲への道は、『曾根崎心中』においてたしかに一度は貴重な足がかりを得ながら、この風土では育たなかった。日本文芸・日本芸能の形式主義への固定に対する輝かしい挑戦は、かくして享保期の黄昏に沈んでいった。それは近松の限界であるとともに、近世日本の限界でもあったのだ。(p.333)

たしかに近代の文学観から見れば、近松の戯曲ひいては近世の文学・芸能は「個」をもった「人間」を描けなかった、という限界があったのかもしれない。あくまで近代的な「個」や「人間」というものを尺度として見た場合だが。というような批評が、本書にたいして可能ではないか、と思う。本書は、近代の文学観にかんたんに寄りかかりすぎているのではないか。別の見方も可能なのではないか、という疑問も出てくる。
本書のキーワードは「かぶき」である。歌舞伎のもとになった「かぶき」のことだ。「かぶき」的人物として、著者が冒頭で取り上げたのが豊臣秀吉である。

あらゆる時代の英雄と対比してみても、それはたしかに、常軌を逸して人間的である。この人間性の逸脱をさして、人かりに(すくなくとも私は)かぶきと名づけるのである。(p.10)

常軌を逸脱した人間、それはすなわち一つの強烈な「個」性を持った人間の謂いであろう。「かぶき」的人物は、「新生の神々」として言い換えられ、それは「新しい倫理、新しい感覚、新しい価値の、創造者」(p.10)と位置づけられる。そして、これが、著者の本書を貫く視点に他ならない。この視点から、近世文学を読み解くことになるだろう。だが、これは、繰り返すが「近代」的な評価でしかないのではないだろうか?