漱石作品の男たち

小谷野敦夏目漱石を江戸から読む 新しい女と古い男』中公新書
田中英道『画家と自画像』講談社学術文庫
夏目漱石を江戸から読む』をあらためて再読してみたけれど、やっぱり面白い本だ。私は、『八犬伝綺想』がお気に入りの本なのだけど、この本も同じくらい良い。『八犬伝綺想』よりも肩の力が抜けていて読みやすい。

しかし、代助の「迷い」は、三千代が最終的に何を考えているか分からないにしても、ある暫定的かつ不安定な三千代の内心についての推測を行っていなければ起こりえないはずのものだ。だが、『それから』の、代助の内面に即した語りは、三千代の内面を語らないのみならず、代助が思い描いた三千代の内面すら描こうとしない。『それから』が奇妙なのは、もの部分を隠しているからなのである。そして、実は、代助は、三千代の愛についてほとんど確信を持っていたとしか思えないのである。(p.122)

漱石の小説はしばしば女性が描けていないと言われる。女性の登場人物は自分の胸の内を語らない。それが『明暗』のお延に至ってようやく内面を語る女性が現れた、というのが定説となっている。だから、漱石の女嫌いとか、女性を抑圧しているという意見も出てくるのだが。
それはともかく、引用部分で気になったのが最後の文章である。「代助は、三千代の愛についてほとんど確信を持っていたとしか思えない」というところ。なるほど、代助は三千代が自分のことを愛しているというのをすでに前提にして、その上でいろんなことを悩んでいた男だったのか。なんだか、漱石の作品の男たちは、女性の内面がどうなるか少しも拘泥せず、なんらかの「徴候」をもって、自分が愛されている・愛されているかもしれない、あるいは自分が女性から誘惑されているかもしれないと思いこんでいるようだ。
これは、今風な言い方をすれば、ストーカーの心理なのではないか。漱石の作品の男は、なんだか分からないけど、自分が女性に誘惑されていると感じて、その「女の誘惑」に恐れを抱くだろう(ex.三四郎)。
このことから、この前読み終えた菅原和孝『ブッシュマンとして生きる』で分析されていたグイの人たちの性について思い出す。グイの性は、たしか男性は女性の何らかの身体の「徴候」を読み取って、それによって女性を口説き始めるのだ。自分のことに関心がありそうだという女性の「徴候」を見出したら、アプローチしなければ、という感じか。私たちからしたら、こうしたグイの性はストーカーに思える。実際、悲惨な目にあう女性もいるらしい。しかしながら、一方で、私たちは他者の身体の「徴候」を読み取るということがどうも鈍くなっているのではないか、ということも考えられる。
身体の「徴候」に従って行動する文化に対し、一方で「内面」を重視して行動する文化もある。ここから一気に飛躍して妄想してみる。
かつては、身体の「徴候」に従って性が営まれてきた。が、しかし近代になって「内面」が発見されると、「徴候」にだけ従っていてはだめになる。相手の「内面」というものが気になって仕方がないからだ。で、相手の「内面」が気になって、「徴候」に頼った行動が出来なくなる。「徴候」を読み取ってしまったにも拘わらず、その読み取りが「内面」と合致しているのかどうかが気になる。そうすると、何も行動できなくなり、「女の誘惑」の恐れる男というものが現れてしまうのではないか??。そうしたジレンマというものを、漱石の作品の男たちは体現していた??のでは、と。あくまで、想像の域でしかないけれど。
話は変わって、『それから』をメタ=恋愛小説と解釈したのは、とても面白い。恋愛=自然、結婚=制度が対立していると『それから』を読むのではない。実は、『それから』という小説は、恋愛=自然すらも結婚=制度から生まれたものにすぎない、と露呈してしまう、というのだ。なるほど、この論の展開はうまいなあと思う。
さて、もう一冊の『画家と自画像』は西洋の自画像の歴史を辿っていく本だ。第3章の17世紀を扱った箇所が、論に一番力が入っていたような気がする。具体的には、バロックの画家やレンブラントを論じている箇所。一方で、近代や現代の自画像には評価が辛い。どうも著者の好みではなさそうだ。
著者は言う、「肖像画は、その人物に謙虚さと威厳がそなわっていなければ時として醜く見える。むろん謙虚さや威厳が社会的な地位によってもたらされるものではなく、その人物が欲望うずまく世俗的な社会を超えて人間の理想を見つめることにもとづくものでなければならない。」(p.230)
自画像もこれと同じだという。つまり、

自画像にも謙虚さと威厳が失われたところには、諷刺しか存在しなくなるといえる。(p.230)

おそらく「個」や「人間」というものが現れない自画像を評価しないのだろう。人間中心主義の絵画観と、言えるのかもしれない。
有名なゴッホの耳を削ぎ落とした時の自画像についても、「ゴッホはただ自分の白い包帯をした姿そのものに、形や色そのものにしか関心を抱いていないのである」と解釈している。「形」や「色」といった絵画性を強調する近代の絵画が好みではなさそう。