バタイユはやっぱり苦手

バタイユ『エロティシズム』ちくま学芸文庫
なんとか『エロティシズム』を読み通す。辛かった。バタイユの思考のリズムというか、文体のリズムに私がどうしても合わせることができない辛さだ。自分のリズムと合う文章と合わない文章というものがある。自分のリズムと文章のリズムの波長がうまくかみ合っているときは、たとえその本の内容が難解であろうと、心地よく読書ができる。(たとえば、わたしにとって、ヴィトゲンシュタインとかフーコーとかバフチンあたりが、そのような存在だ。)
しかし、どうしても文章にリズムに乗れないときは、たとえ本の内容が易しくて理解できたとしても、読後の印象はあまり良くない。
私にとって、バタイユは、書いている内容も理解しにくいし、ましてや文体のリズムに合わせることも出来ないので、ただただ読むのがシンドイ。しかしながら、日本ではバタイユってけっこう読まれているし、影響も与えている。『東大教師が新入生にすすめる本』(文春文庫)のなかで、石井洋二郎氏も「エロティシズムとは「死に至る生の称揚」であるという冒頭の一文には、今読んでも痺れてしまいます。(…)この本に限らず、学生時代に耽読したバタイユの著作からは非常に強烈な印象を受けました(p.269)」と述べている。古くは三島とバタイユの関係もあるし、どうしたらバタイユに痺れることができるのだろう?
一応、『エロティシズム』のなかから、気になった箇所をメモしておく。

私たちは、とにもかくにもこの限界を定義しようとする。そうして私たちは禁止を定め、神を定め、堕落をも定める。そして、ひとたびこれらの限界が定められると、私たちはいつもこれらの限界から出てゆこうとする。結局、私たちは次の二つのことが不可避となる。すなわち、私たちは死ぬことを避けることができないし、また《限界から出てゆく》ことを避けることもできないということである。しかしながら、死ぬことと限界から出ることは、同一の事態なのだ。(p241)

ひたすら、このような内容のことが反復されるのが、この『エロティシズム』という本だ。「禁止」「侵犯」などのキーワードが何度も何度も出てくる。

哲学は哲学の外へ出ようとしない。哲学は言葉の外に出ることができない。哲学は、言葉のあとに沈黙が続くことが絶対にないように言葉を用いている。それだから最高の瞬間は哲学の問いをかならず超え出ることになる。少なくとも哲学が自分自身の問いに答えようとしている限り、最高の瞬間は哲学の問いを超え出ることになる。(p.467)

「言葉」というのも、私たちの限界を定める一つなのだろう。私たちは「言葉」の外へ出ることはできないが、しかし、その外部を目指そうとするものらしい。

もしも誰かが、私たち人間とは何なのかと私に問うたなら、私はともかくこの人にこう答えるだろう。私たちとは、可能事全体への開けであり、いかなる物質的な満足によっても鎮められない期待であり、言葉の戯れによってまぎらすことのできない期待である、と!私たちは頂点を追い求めている。(…)唯一この頂点だけが人類全体を定義しているのであり、人類全体を正当化し、人類全体の意志になっているのだ。(p.467)

このあたりの主張が、私にはうまく掴めない。どういうことをイメージしてバタイユがこんなことを書いているのかが、私にはまったくイメージできないのだ。それは、たとえば「エロティシズムは孤独である」という考えも同じだ。バタイユがイメージしているもの、前提にしている事柄を理解しないといけない。