ジュリアン・バーンズ『フロベールの鸚鵡』

ジュリアン・バーンズフロベールの鸚鵡』白水社
面白い。フロベールの愛読者・研究者というのが主人公。その主人公のフロベールについての批評が小説となっている。小説のなかで小説について述べる。先行する小説に対して、後からやってきた小説家はいかに書くか。そんなことを考えさせる。注目したのか以下の箇所。

年をとるにつれて、ますます自分は意味ある存在だと確信するようになる人たちがいる。それほど確信を持てない人もいる。僕のような人間の場合、自分の人生に何らかの意味があるだろうか?こういう平々凡々たる人生など、いくらかましな誰か他の人生によって、大体の意味がかわって示され、取りこまれ、つまりは無意味なのではあるまいか?いや、もう少しましな人生を送った人たちを前にして自分自身を否定しなければならぬなどと言っているのではない。ただ、この点、人生はいくらか読書と似ているのではあるまいか。先の章で言ったように、一冊の本に対して自分の抱く感想意見などがすべて、専門の批評家によってすでに書かれ、さらに詳しく述べられていることの単なる繰りかえしにすぎないとしたら、読書に何の意味があるだろう?

この問いに対して、意味があるとすれば、「この自分自身」が読んだのだから、と言うしかないという。この箇所は、非常に身につまされるところで、私自身、研究がスランプ状態になるのも、この不安があるからだ。平凡な自分の意味など、誰かが既に詳しく示しているのでは、ということを常に思ってしまう。本当に自分の意見に意味があるのか?