浅羽通明『大学で何を学ぶか』

浅羽通明『大学で何を学ぶか』幻冬舎
『大学で何を学ぶか』を読み終えて。議論に甘さが残っているという印象。かなりキツイつっこみがあるにはあるが。
まず、本書には大学が形骸化しているという前提がある。教授は自分の専門分野のみ語るだけ。そんな講義を真面目に勉強しなくても、立派に卒業して社会人として働いているではないか、と。それなのに、大学は学問の府だと言い聞かせ、真面目に授業に出る君は、勉強するということを言い訳にして現実逃避しているのではないか。
現実逃避としての勉強というのは、たしかに一理あるかもしれないと、自分自身にも思うところあり。こうして大学を批判していく前半部は良いのだけど、後半部になるにつれておかしいなあと感じ始める。
こんなエピソードが書いてある。

 数年まえ、ある喫茶店で、バイト学生の男女がまさにそんな学生の噂をしているのが、耳に入った。
 まず一流の私大生らしい女子学生のほうが最近、そうした、「変な奴」と会ったらしい。なにしろ話、全然通じないのよーと彼女は呆れきって語る。いきなりドゥルーズとかショーペンハウエルとか始めちゃうし、こっちが凄い勉強してますねー、あたし全然知らないとかいうと、なんかすごーい威張っちゃってぇー、「ほんとに大学行ってんのかよ、こんなことも知らないなんて、もうおしまいだな……とかーぶつぶついうわけー。

こうした「変な奴」は、せいぜい研究室か同じような人があつまるサークルぐらいという。このあたりを読んでいて、思ったのは大学というものが上記のような「変な奴」のあつまる場所、そういう社会なのではないかと。つまり大学は万人向けの場所ではなく、特殊な人が集まっているマイナーな場所でしかないのではないか。それなのに、大学が大衆化してしまったので、上記のエピソードのようなあり得ない階層の出会いが生じてしまったのではないか。
大学で教えられることなんて、全ての人に役に立つ知識ではないのは当然だと思う。だから、社会に出たら勉強したことなんて全然役に立たないということも当然あるし、逆に大学で学んだ知識が役に立つ人もいるわけで。本書で気になるのは「社会」で役に立つとか役に立たないという言葉だ。こう述べるとき、「誰が」どんな「社会」において、大学で学んだ知識が役に立たないのか分からない。(いや、ぼんやりとは分かるけれど。)要するに、みんな同じ「社会」に生きているということが前提にされている。だから、「社会」についての説明がないのだ。
知識が(あるいは本書では「教養」)が役に立つのか立たないかは、各個人にとって異なるのだし、それを踏まえると本書の議論は危うい。