三島由紀夫『沈める滝』

三島由紀夫『沈める滝』新潮文庫、1963年12月
石や機械といった無機物にしか興味を示さない男と不感症の女とで、はたして恋愛小説が書けるのか。三島はそういう実験をこの小説で行なったのだろう。

そこで、昇が提案をした。誰をも愛することのできない二人がこうして会ったのだから、嘘からまことを、虚妄から真実を作りだし、愛を合成することができるのではないか。負と負を掛け合わせて正を生む数式のように。(p.44)

こうして、二人の「人工的恋愛」が始まる。昇は、「人工的恋愛」のために、二人は「会わなければいいんだ」とし、さらに遠く離れている間、手紙や電話を使って「お互いに苦しめ合うよう」にすればいいと提案する。そして、昇は雪によって冬の間は交通が遮断されてしまうダムの建設現場へとさっさと向かってしまう。
村松剛の解説では、「既成のものを信じないという立場に立って、その荒廃の上に、あらためて夢なり美なりを、人工的につくり出そうとするところに成りたってきたのが」三島文学の世界であるという。その点において、この『沈める滝』も例外ではないと。「図式的になる危険をおかしてまで、年来のその問題を追及している」(p.289)と、村松は述べている。
私もこの見方に賛成している。となると、三島の作品おける「自然」と「人工」という問題が浮かび上がってくる。『沈める滝』でも、主人公たちが「人工的恋愛」を試みる一方で、ダム周辺の「自然」描写がけっこう多い。昇と顕子の恋愛は、顕子の自殺という悲劇的な結末を迎えるが、物語はここで終わらずに、エピローグのような場面が語られ、そこで昇は知り合いの女性たちと完成したダムの見学を行っている。その帰り道、昇はなんでもない場所で休憩をとる。そしてこう言う、「丁度俺の立っているこの下のところに小さな滝があったんだ」(p.287)と。顕子に似ていると昇が思った「小さな滝」。その滝が、いまやダムの建設のために埋まってしまう。妙に象徴的な場面だなと思う。

沈める滝 (新潮文庫)

沈める滝 (新潮文庫)