メルヴィル『白鯨(下)』

メルヴィル(八木敏雄訳)『白鯨(下)』岩波文庫、2004年12月
ようやく全部読み終えた。下巻、特に後半のモービィ・ディックとの対決場面がすごい。3日間の追跡の果てに、エイハブとその船は海へ沈んでいく。ただ一人、この物語を実際に観察し、そして語り手となるイシュメールだけが生き残る…。
この岩波文庫の本には、最初に船の図や、ピークオッド号の航跡を記した地図があり、それらは物語を読む際にとても役立つのだけど、このピークオッド号は日本の近くにまで鯨を追ってやってきている。

さて、ピークオッド号は南西の方向から台湾およびバシー諸島のはざまに接近しつつあった。そこはシナ海から太平洋の熱帯海域への出入口のひとつになっていた。スターバックが船長室にはいっていくと、エイハブは東洋の諸群島をひとつにまとめた海図と、長い日本列島――ニホン、マツマイ、シコケ――の東海岸をしめす部分図を眼前にひろげていた。(p.182)

ちょうど鎖国状態にあった日本だ。訳者も注で触れているが、日米和親条約アメリカの目的が、捕鯨船に対する欠乏品の補充と漂流船員の保護にあったとのこと。アメリカにおいて、「日本」に対する関心が強まった時期にこの小説が書かれている。こういうのは、たとえばニューヒストリシズムあたりの研究で触れる事柄なのだろうか?。メルヴィルも日本の開国に関心を向けていることだし、比較文学者ならメルヴィルの「日本」観について調べるのだろう。
それはともかく、どうやら日本の近海が捕鯨の「究極の海域」(p.202)らしい。エイハブが、日本のちかくに来ていたのかと思うと面白いし、そのエイハブが追い続けているモービィ・ディックも近くにいたのかもしれないと想像すると、この物語に親近感が湧く。
文庫の中巻は、イシュメールの鯨学に関する講釈が長くつづき、ちょっとうんざりしてしまったが、下巻に入ると語り手のイシュメールがあまり出しゃばらなくなる。が、しかし、それによってこの小説の実験性が失われることはない。戯曲調になったり、登場人物の独白が長く続いたりと、いくつかの形式組み合わせて語っていく。どうしてイシュメールは、この物語を報告するのに、こんな面倒な方法を採ったのだろうか。章ごとにスタイルを変化させたりする目的は何だったのだろう?『白鯨』を読んで気になるのは、この語りの方法なのではないか。この点を、訳者が解説で触れている。この小説は、文学理論などを使って読み解きたい誘惑に駆られる作品だと思う。

白鯨 下 (岩波文庫 赤 308-3)

白鯨 下 (岩波文庫 赤 308-3)