吉田喜重『鏡の女たち』

◆『鏡の女たち』監督:吉田喜重/2003年/グルーヴコーポレーション・現代映画社・ルートピクチャーズ・グルーヴキネマ東京/129分
『ろくでなし』が吉田のはじめての作品だとしたら、『鏡の女たち』は現時点でもっとも新しい作品だ。この二つの作品の間には、40数年という時間がある。それが吉田喜重の映画監督としての歴史なのだ。
この映画は、タイトルに「鏡」が含まれている。「鏡」は、吉田映画を特徴づけるアイテムではあるが、この映画ではその「鏡」が割れている、というのが非常に感性を揺さぶられるし、ある意味不気味なのだ。
また、「歴史」を語るとは可能なのかというアクチュアルな問題に触れている。それは「私」の記憶を巡る物語として、3人の女の「記憶=物語」が語られることになるだろう。その記憶を語る方法を、この映画では3つ提示している。一つはDNA鑑定に現わされるような科学的な検証法。それから、広島の原爆をテーマを取材している女性に現わされるような、史実に基づく方法。この二つは、「客観的」(とりあえずカッコ付きで)な歴史語りと言えるだろう。3つ目は、「主観的」な語り、つまり「私」の記憶を語ることである。こうした3つの方法を、吉田はこの作品のなかで共存させる。どの方法が正しいとか、間違っているだとか、そんなことを吉田はけっして問わないだろう。それが吉田の倫理だと思う。客観的な語りも、主観的な語りもどれも一つの「歴史」として排除されることなく並列させること。これは、たとえば『エロス+虐殺』の歴史語りと同じ方法なのではないかと思う。
この映画は、とりわけ「光」を巧みに用いた作品である。まるで血の色のような真っ赤な夕日に、岡田茉莉子一色紗英の二人を染め上げられる場面も強烈な印象を残すだろう。そして、この映画でもっとも重要な場面だと思われる原爆ドームを前に3人の女性が並び、岡田茉莉子の語りを聞く場面もまた「光」が鍵となっている。
夕暮れ近くからはじまり、語りとともに時間が刻々と変化する。その時間の変化に伴って、原爆ドームの表情もまた変化するのだ。ここでは、原爆ドームが、単なる場所を示す建造物ではもちろんないし、歴史的モニュメントでもない。ドームは一つの巨大な存在であり、圧倒的な存在感をもって、彼女たちの前に立っているのだ。彼女たちはもちろん原爆ドームを見るわけだが、同時に彼女たちは原爆ドームからも見られているのだ。一方的な眼差しを権力と批判する吉田監督ならではの、とても美しいかつ極めて倫理的な映像だと私は思う。その意味で、吉田映画にとって、この映画、とくにこの場面は重要なものとなるであろう。
そう考えると、歴史語りを主題にしたこの映画で、「鏡」が割れているというのも吉田の優れた批評性を示すことになるだろう。割れている「鏡」は、歪んだ像を映している。映像とは、このように映す対象を語る対象を常に枠にはめ込み、歪ませてしまう。吉田は、そのような映像の持つ魔力に自覚的なのだ。初期作品の頃から、吉田は「虚構性」に自覚的であり、それを批判的に捉え続けてきた作家だと思われる。映画のスクリーンが、ヴェールとなって何かを覆い隠してしまうこと、映画にはそのような限界があることをこの映画でははっきりと示しているのだ。
真っ赤な夕日が、障子というヴェールを通して女たちを照らしていたのも、吉田の歴史に対する倫理的な態度だと思う。映画が時にヴェールとなってしまう限界を限界として提示した。このことを忘れるわけにはいかない。

鏡の女たち [DVD]

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