『女のいない死の楽園』

◆渡辺みえこ『女のいない死の楽園―供儀の身体・三島由紀夫』パンドラ、1997年10月
ゲイ・スタディーズやフェミニズム理論をつかった三島の評論。こうした理論で、「三島由紀夫」のセクシュアリティを読み解いたことは評価できる。三島が「筋肉」の鎧によって「クロゼット」のなかに隠したものはなんだったのか。著者は、はじめにこの評論のねらいをこうまとめている。

作家三島由紀夫とその文学は、彼が構築した作品世界と、鍛錬の成果の鎧をつけた肉体と行動など、書かれたもの可視のものの裏側の、書かれなかったもの書けなかったもの、書きたくなかったもの、劇的なパフォーマンスによって隠そうとしたものによって読まれなければならないだろう。それは昭和日本の文化規範が圧殺したもの、現在も私たちが幽閉しようとしているものを見ることでもあろう。(p.4)

こうして著者がこの評論において暴くのは、「クロゼット」の中に隠蔽された「女性」である。
三島は自身の内なる「女」を隠すために、「男」へと向かう。「男」同士の連帯のなかで、美しく死ぬことが理想となるであろう。それは、「女」を拒否することであり、三島が「女性嫌悪」の言葉を吐き続けていたことと表裏一体なのである。内なる「女」を筋肉の「鎧」のなかに封じ込めようとする三島像を、著者は浮上させる。
女性性を排除しようと演じ続けてきた三島だが、やがてその内と外の対立は破綻を来たす。自決という可視的なパフォーマンスで示される出来事のことだ。

このように女性憎悪の発言をさまざまな形でし続けた彼だったが、それは「女」と仇名された三島の内部の女性性排除のための効果的で可視的な演出であった。彼の内部の女性性を抹殺することであり、そうするにつれ、彼のなかの「女」は日々血を流し、それを包んだ男の形をした肉体も死なざるを得ないところまで追いつめていってしまった。その「女」は命を支えていたであろうし、セクシュアリティーとしても、それを抹殺しては生きられなかったのではないか(p.117−118)

いうなれば、腹を切り裂く=内部の露出は、抑圧してきた内なる女性性の解放だったのだ、と読めるのかもしれない…。
私は、こういう小説の読み方が嫌いなので、この本の評価は正直かなり低いのだが、それでもがんばって長所を指摘すると、セジウィックの理論をよく勉強しました、というところだろうか。
まあ、それだけかな…。

女のいない死の楽園―供犠の身体・三島由紀夫

女のいない死の楽園―供犠の身体・三島由紀夫