『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』

橋本治『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』新潮社、2002年1月
橋本治の友人が三島家にあったアポロ像があまりに「チャチ」なものであったことに驚いた、というエピソードで本書は始まる。この友人は、三島の「チャチ」な部分にショックを受けるわけだが、橋本はショックを受けたりしない。ただ「ふーん」と思うだけだという。三島由紀夫が生きていた時代は「へんな時代」だった。そして、三島由紀夫もまた「へんな人」であったことは「間違いのない事実」であると橋本は言う。いかにも橋本治らしい視点で、本書への期待が高まる。
橋本は自決事件には関心がないと記している。三島論では必ず考察されることになる事件の解読に向かわない。橋本が取り組むのは、『豊饒の海』の読解である。なぜなら、橋本にとって、「三島由紀夫は、「こういうものを書くと死ななければならない作家」であるからだ。思わず笑ってしまうような言い方だが、橋本はこのことをひたすら解読していくのだ。橋本は、『豊饒の海』を読み進めながら、「三島由紀夫が死ななければならない理由」を論じていく。異色の三島論と言えるのではないか。
本論でも橋本らしさは発揮されていて、たとえば「同性愛を書かない作家」という章がある。「三島=同性愛」という構図は、三島論ではありきたりなだけに、この「同性愛を書かない作家」ということを論じるのは興味深い。また、三島にとって重要なのは「意志」であるということから、三島独特の「意志という恋愛」を論じている。「意志という恋愛」から出てくるのは、「不可能な恋」というものだ。三島は「不可能な恋」を書いたという指摘は面白い。
とはいうものの、論の進め方、議論の内容がかなり複雑で、一読しただけではなかなか橋本の言いたいことが理解できないと思う。論じる方法や視点の斬新さという魅力があるにも関わらず、理解しにくい本文というのは少しもったいない。三島の複雑さを、さらに複雑にして論じているような印象を受けた。どうして、ストレートに論じないで、くねくねと核心を回避するかのように論じるのか。それが橋本治の思考方法なのかもしれない。他の本では、たしかにこの思考方法がうまくいく。しかし、この三島論では逆効果だったのではないか?。私には、その点が非常に悔やまれるのだ。面白い斬り込み方をしており、その三島に向かう態度は、私好みなのだけど。
だからこそ、この本は貴重なものかもしれない。橋本治の視点を受け継いで、それを発展させることができる余地があるのではないか。あとがきのなかで、橋本もこの本は「終わらせるため」ではなく、「始めるための本」だった(p.380)と述べている。これは重要なことだろう。まだまだやるべきことや考えることが、たくさん残っているということだ。それはとてもうれしいことなのだ。

「三島由紀夫」とはなにものだったのか

「三島由紀夫」とはなにものだったのか