恐れを克服する方法

◆ハワード・S・ベッカー、パメラ・リチャーズ『論文の技法』講談社学術文庫
かなり私のツボにはまった本。論文の書き方を述べつつ、同時に学問の世界で「論文を書くこと」の意味を社会学的に考察していて、どちらにも興味がある私としてはたいへん有益な本なのだ。
ベッカーはどうやら書いた論文を何度も書き直すのが好きらしい。なので、しきりに何かを書くことを薦める。研究・調査が一段落して、それを論文にしようとする際、まずはじめに何も頼らずに自分の頭に思い浮かんだことを書き出しなさい、と指導している。そのなかに、きっと自分の考えが見えてくるという。
これは良い方法だなと思う。これなら私もやってみたい。というか、これからやってみよう。今度から、思いついたことはみんな日記に書き記しておこう。そこから論文をどう書いたらよいのか見えてくるかもしれない。書くことから始めること!
しかしながら、私の場合、書くことに恐れを抱いていることも確かだ。恐れとは、自分の書いたものを他人に批判されることだ。他人の意見が気になって何も書けなくなってしまう。何も書かなければ、自分が傷つくことがないからだ。
こうした書くことの恐れについても、この本のなかで取り上げられている。どうやら、この恐れを克服するには、文章を書き続けることしかないようだ。書き続け人に読ませてみることで、文章を他人に読ませることは、それほどキケンなことではない、ということを実感していくしかないようだ。

まずリラックスして、そして、それをせよ!あなたが恐がっていることをしないでいたら、また、それが想像していたほど危険でないことが理解できなければ、その恐れを克服することなどできないのです。それで、あることを書くための解決法は、混沌を全体的に、論理的に、完全に熟知しないであろうとも、とにかくそれを書いてみて、そして、それを書いてみても、世界は終ることがないのだということを発見することにあるのです。(p.250)

私は、過剰に批判を気にするので、批判を受けないように完璧な論文を一発で仕上げなくては、と思いこんでいた。たしかに、一回で完璧な論文など出来ないし、そもそも完璧な論文とは存在しないのだろう。論文というものはつねに未完成であり、たえず批判・検討し、より良いものを目指していく。実際は、こんなところなのだろう。論文を書くことは、命を取られるほど危険なことではない。
「論文」などと言うと、つい身構えてしまうから良くないのだ。「論文」を書く、なんて言わずに、「いま、ろんぴゅんをかいてるとこなんですよ、てへへっ」みたいなノリで良いのではないか。たとえば、武田徹『調べる、伝える、魅せる』の中で取り上げられていて、斎藤美奈子も刮目したという佐藤克之『カーツの文章読本』にはこんなことが書いてあるという。

だいたいオマエら最初にいっとくが"文章"なんていう漢字二文字で考えるからめんどくさいんだぞ、こんなもん。
"文章"じゃなく、ためしに"ぶんちょ"とプリティ感覚で考えてみろ。もう、なんだか、どうでもいいようなもんだろ、"ぶんちょ"じゃ。
"ぶんちょ"がいやなら"ぶんひょ"でもいいぞ。なんだか歯から息ぬけまくっちゃって、これじゃなんの威厳もない。(『調べる、伝える、魅せる』p.160)

これだ!この「プリティ感覚」が必要なのだ。「博士論文」なんて書くから、萎縮して何も書けなくなってしまうのだ。「はかちぇろんぴゅん」なんて書けば、なんとなく「ミニモニ。ジャンケンぴょん」みたいで、プリティになるではないか!。きっと、これぐらいがちょうど良いのだろう。この感覚を忘れずに、これからバシバシ書いていこう。
あと、これも忘れずに!

文献を使いなさい。文献に使われないようにしなさい。(p.276)