「悪」の魅力

◆『白い巨塔』監督:山本薩夫/1966年/大映/150分
主演が田宮二郎。はじめて田宮二郎を見たのだけど、目付きが鋭くて、かなりの二枚目。眉間にしわを寄せると、まさしく「苦悩」しているという雰囲気が出ていた。
私は、昔のものにしろ最近のもテレビ版の『白い巨塔』は見たことがない。さらに原作の小説のほうも読んだことがない。なので、映画版がテレビ版とどう違うのか、原作には忠実なのかは分からない。このあたりは、気になる。
映画では、財前が教授へ上り詰めることと、同時に誤診裁判に巻き込まれることに焦点が当てられる。教授選に絡んで、大学病院内の権力争いがグロテスクに描かれる。それは、オープニングの手術シーンで、メスで身体を切り裂き、内臓を取り出す映像で暗示されているのだろう。
とすると、この教授選というのは一種の手術のようなもので、病院内の癌を取り出すはずだったのに、実際に切り取られたのは、政治に関わらず医者としての倫理を忠実に守る里見助教授であったことは、この病院内の病の深刻さを提示することになるのではないだろうか。
しかし、率直に言って、この物語で大河内−里見ラインのヒューマニズム路線に魅力を感じる観客は少ないのではないか。やはり、この物語の最大の魅力は財前だし、財前の魅力の前では、陳腐な医者の「良心」などまったく意味を持たない。そもそも、科学が政治に犯されず、中立で純粋に真理を探究するものである、と言うこと自体がイデオロギーにすぎないではないか。大河内−里見が医者としての良心を主張すればするほど、その存在の胡散臭さを感じてしまう。そんな里見を好いている東教授の娘なども、胡散臭い。
というわけで、私はもうこの田宮二郎演じる財前に完全に惹かれてしまった。「悪」の魅力というやつだ。大河内−里見よりもずっと「人間」らしさを感じた。